大仙山城(西原小屋)の遺構を発見!

大仙山城

大仙山城

伊豆半島の付け根に位置する函南町畠毛字岩山の大仙山城(標高180m)は、『静岡県の中世城館跡』(1981年 静岡県教育委員会)や『ふるさと古城の旅』(1998年 水野茂著)に取り上げられているものの、その縄張り構造については当時の調査域が山頂部中心の狭い範囲だったためか明確な城郭遺構はなかったと考えられていた。

さる6月5日、本会理事で裾野市に住む宮川茂美さんは、友人である相模の原明利さんとともに、この要害・大仙山城の悉皆調査を敢行した。その結果は目を見張るもので、山頂から南東側を急斜面で下った尾根按部に明確な二つの堀切と平場・土塁を発見。さらに山頂の北尾根の中腹に出城(北砦)と思われる曲輪とその谷側に石積みされた井戸跡を、また、南尾根の先端にも小砦跡(南砦)を発見する快挙を成し遂げた。現地は峻険な地形で人を寄せ付けない山容のため、これまで調査を阻んできた感があったが、二人の果敢な連携調査により大仙山城の全容が明らかになってきた。

宮川さんからの精査依頼を受けて、水野会長・望月副会長・小川理事が6月15日に現地の確認および縄張作図を行ったが、以下に、水野会長がまとめた考察を掲載する。(平井)

城館史
大仙山城については『増訂豆州志稿』に、

  畠山六郎営址(とりで・陣営)。畑毛村大仙山ヲ畠山六郎ノ営址ト云伝フ。(中略)六  郎ハ重忠ノ子重保ノ此地ニ於ル事蹟今考フ可ナシ。山下ヲ城ガ下ト云又御待場、  陣川戸、的場、城不見坂等ノ地名アリ永禄十三年五月廿二日北条氏忠ヨリ当村西  原氏ノ先祖源太ト云者ニ興ヘシ感状ニ曰此度仁西原小屋ヘ敵取詰候処彼地籠リ走  廻候コト無比類候弥於相稼者御本城様ヘ申上可引立者也仍状如件ト是亦同処ノ陣  小屋ニシテ敵トハ武田勢ニシテ信玄韮山攻ノ時ナル可シ。

と、二期の構築を伝えている。まず、元久二年(1205)六月、鎌倉幕府有力御家人の畠山重忠の子六郎重保は、北条時政との確執によって滅ぼされた「畠山重忠の乱」期にあたると推定される。しかし、同地が畠山氏知行地かは不明で、鎌倉期の「畑毛」は隣接する仁田郷の新田氏が所領しており(県一‐一一二八)、同期にこのような山城を築くことも理解できず、多くの疑問が残る。可能性は低いが、その後の正平十七年(1362)、「畠山国清の乱」期に同一族により築かれたことも考えられる。

最も信憑性が高い時期は、やはり永禄十三年(元亀元年・1570)、武田信玄の駿河侵攻に伴う時期で、信玄は五月に駿東郡から伊豆北部まで侵攻し、韮山城に迫る勢いであった。そのとき、韮山城北の畠郷(畑毛郷)の土豪であった西原源太が「西原小屋」に立て籠もり無類の働きを伝える文書史料から、彼が拠った山城であったとことは確実である。なお、『小田原衆所領役帳』の小田原衆の中に、「百貫文 豆州畠郷 西原善右衛門(源太と同人物か)」とあり、同氏の本地であったことも分る。

縄張概要
函南町と伊豆の国市との境界とする大仙山は「城山」ともいわれ、岩盤が露出する峻険な痩せ尾根上に存在する。田方平野(北伊豆平野)の中央に位置するため、ここからは南に韮山城(伊豆の国市)、西に大平新城・鷲頭山砦(沼津市)・戸倉城・泉頭城(清水町)等と北伊豆地方の北条系城郭が見渡せる要地に占地している。

大仙山城縄張図

大仙山城縄張図

巾7mの堀切

巾7mの堀切

標高約180mの最高所(1)(大日正観音と刻んだ玉石を安置)が主要曲輪で、東西50mあるものの幅5mと狭く自然地形であるが、南下段と東山腹には大小五段の腰曲輪が認められ、東に延びる稜線上を意識した備えである。(1)より20mも下るところには、大岩東側に古式な堀切(A)と、近代に築かれた切り通し(B)と推定されるが、大仙村と畑毛村(正法寺の谷)に通じる古道が推定され、ここは大手口があったと考えられる。切り通し(B)の東側(2)は東西30mを測り、土塁が付加する幅7mの堀切(C)の構えから、東尾根上の一つの空間(3)を遮断しているものの、土塁南下に通路状の虎口が認められる。(3)は東西70mの自然地形ながら人員を収容できる空間でもある。さらに東へ進むと高さ0.5~1mの土塁(D)が尾根上に沿って築かれ、織豊系遺構かと涌き立ったが、畑地を区画するものであった。(D)が上がりきった頂部(4)は畑地により改変で、こまでを城域とすることは今後の追究課題である。

北砦 櫓状遺構

北砦 櫓状遺構

同城の主要部(1)の南支尾根上に小規模な南出曲輪(5)と、西下段には金比羅宮を祀る平坦部(6)も西出曲輪として機能したと推定される。さらに、相当下る北西支尾根にも南北40mの腰曲輪を設けた北出曲輪(7)が存在するが、背後の巨石に刻むピット、そして東谷部には二段の池状石積みと周辺にも石積みが散在し、その性格についても不明である(近代の何かの装置か)。

北砦 井戸跡

北砦 井戸跡

(7)の支尾根を下がりきったところに、代々この地の名主を務めた屋敷があり、その屋敷が戦国期に遡るのか不明であるが、(7)と根小屋関係にあったことも考えられる。

以上、調査域を見てきたが、(4)から(7)までを城域とすると東西500m以上と広大になってしまう。しかし、確実に城郭遺構と認められるのは(1)と(2)の空間で、最高所(1)より(2)の低地尾根上周辺が最も重要視した機能・運用形態が捉えられ、けして前面に出ることのない曲輪配置は、西原氏という土豪層の城郭として理解でき、(3)と(4)は村人たちの避難地と推定される。前述の「西原小屋」の記述からも、もともと避難地機能を有していた「山小屋」を改造する形で縄張りされたと考えられる。先行研究では、土豪層が山城を築くことはあり得ないとする見解がある。しかし、戦時緊張期に山小屋を戦闘的に改修したことは本稿の分析で類推でき、土豪層の城郭形態について再検討する指標として、注目される山城である。

最後に、以前に同城の調査をしたときは、余りにもの峻険地形であきらめた。今回の宮川茂美調査員の調査は、その急峻で落差もある支尾根を徹底的に調べ上げた行動力と、この成果は当会活動として誇りである。(水野 茂)

文献 『増訂豆州志稿』寛政十二年、『静岡県の中世城館跡』、他

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です