新発見の高平山砦について(森町下飯田)

近年、本会では『静岡県の城跡-中世城郭縄張集成図-』(西部・遠江国版)の報告書発刊に向けて現地調査を実施している。今回は、特に森町教育委員会の協力により森町飯田地域で山城が2か城も発見に及び、重点地域として袋井市北部の宇刈北城と本庄山砦、森町で発見した高平山砦と下飯田砦、飯田城、飯田古城、上飯田砦の7か城周辺を対象域とした。しかし、太田川東岸の狭い地域に異常とも思える密集城郭群は、何を意味していたのであろうか。当該での抗争史を伝える関係資料は乏しいが、元亀3年(1572)、武田信玄の遠江侵攻から、天正3年(1575)の長篠合戦までの3年間にわたる、武田・徳川両軍の抗争の中で軍事運用されたと考えられる。
7か城すべてを紹介できないが、城郭遺構からある程度の年代観を導き出される本庄山砦と北隣りで発見された高平山砦の2城を取り挙げたい。

本庄山砦、高平山砦

左上の小さい丘が本庄山砦、中央の茶園右一帯が高平山砦

本庄山砦(袋井市春岡字春日山)

同城は『静岡県の中世城館跡』にも掲載され存在は知られており、「宇刈七騎」という土豪の一人である村松氏の山城としているが、土豪層が築くことは不可能である。近年の宅地造成に伴う発掘調査で、南東の久野城に向けられた大規模な横堀が見つかり、江戸期の軍記物には両軍が布陣しているものの、これは武田系構造と指摘する先学もある(『森宏之君追悼城郭論集』織豊期城郭研究会)。

同砦南半は大きな支尾根を活用した駐屯地になり、東から南下段に高さ15mの大横堀が構えられていた。

同砦南半は大きな支尾根を活用した駐屯地になり、東から南下段に高さ15mの大横堀が構えられていた。現在、堀は完全に埋まっているが痕跡が判る。(立っている人の前辺り)

高平山砦(森町下飯田・高平山)

高平山標示画像

本庄山砦北に隣接する高平山遍照寺。境内の一角に土塁が残存している。

本庄山砦北に隣接する高平山遍照寺一帯が発見された同砦で、「たかひらさん」と称している。同寺境内には土塁が残存しているも、境内を区画するものなのか城郭遺構なのか不明で、この北方向の山腹には腰曲輪とか切岸は見られない。遍照寺は南北軸の丘陵上の北辺に位置し、南半はきれいな平坦部が広がり、全体で300mと広大である。南端部には堀切状窪地と馬出状の空間も内包しており、さらに南痩せ尾根の15m下の東山腹に、本庄山砦と酷似する同規模な横堀が発見された。縄張図

 

 

落差15mもの立ち上がりは圧巻であるが遺構は約100mと短い。

落差15mもの立ち上がりは圧巻であるが遺構は約100mと短い。

 

 

 

横堀の南端は竪堀状に落ちている。

横堀の南端は竪堀状に落ちている。

 

 

 

 

 

 

 

 

非常に気になる『甲陽軍鑑』の記述
『甲陽軍鑑』の記述 これは、信玄が元亀3年10月に遠江国へ侵入した際に、飯田城と「たゝら」を攻略し天野氏を入れ守備を固めた。どうも徳川方の久野城の抑えにしたと考えられる。信玄の浜松攻めの本陣は合代島であった。徳川軍の久野城・掛川城という後詰に対し警戒した蓋然性は高く、「たゝら」は飯田城か久野城の近くではと推定され、対の城として重きをなしたであろう。先学での「たゝら」を浜松市天竜区只来に当てているが(存在不明)、当該の「たかひら」と口調がよく似ている。
この酷似する二城を合わせると広大な駐屯地を要した陣城となり、武田・徳川という戦国大名間抗争で、兵の大量動員を可能にした築城であることは間違いない。

本稿については、定期総会の平成28年7月17日(日)に発刊する『古城』第60号に小論文にまとめ、続けて開催する「ふじのくに山城セミナー」でも発表予定である。大いに期待していただきたい。

(水野 茂)

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