第256回見学会の報告

武田の忠臣・真田氏と小田原北条氏との激戦地であった北上野の城郭を堪能できました!

箕輪城跡の郭馬出

5月14・15日の一泊二日見学会は、あいにくの天候ではありましたが北上野(群馬県北西部)における真田系城郭と後北条系城郭の構造を堪能することができました。今回の主なテーマは、武田勝頼の忠臣であった真田一族の北上野における拠点城郭とそこを烈火のごとく侵略しようとする小田原北条氏の最前線城砦の縄張り見学でありました。

14日朝7時20分、静岡駅南口から本会専用バス(市澤バス)に22人が搭乗。東名高速道路・愛鷹PAで2人を加えて一路関越自動車道の前橋インターに向かいました。途中の圏央道で事故渋滞に遭い40分ほどのロスがありましたが、11時30分に前橋インターをおり、最後の参加者1人(千葉県松戸市在住)をコンビニで乗せて箕輪城に向かいました。箕輪城は国史跡指定になっているだけに広大で保存状態も素晴らしい縄張りで、曲輪や堀の規模の大きさは圧巻でした。武田氏→織田氏→北条氏→徳川氏と次々と支配者が変わり、変わるたびに有力家臣の手により増築改修された、まさに戦国末期の象徴的城郭の姿を見ることができました。特に印象に残っているのは、大型の郭馬出に復元された西虎口門は昨年11月に出来たばかりで、周囲の整備とともに往時にタイムスリップしたかのような気分にさせてくれました。

郭馬出の西虎口門が昨年11月に復元された箕輪城跡

白井城の主郭に築かれた枡形虎口の石積み遺構

次に向かったのは、利根川と吾妻川の合流点に三角形状で築かれた長尾氏の白井城跡。長尾氏は、越後上杉氏→甲斐武田氏→滝川一益の織田氏→小田原北条氏という戦国大名の侵略・支配に翻弄され、最後は秀吉の小田原攻めとともに前田利家に攻略され滅亡しました。城跡は河岸段丘上に歴然と残る大きな3つの曲輪で構成された典型的な梯郭式縄張りでした。主郭に残る枡形虎口の石積みと広大な曲輪を囲繞する大土塁、そして主曲輪の下段に備えられた「ささ曲輪」等、よく保存整備されており、また両河川の対岸に広がる領地が手に取るように望める絶景地でもありました。

3つ目の見学先は、上杉謙信や小田原北条氏の沼田城攻略の最前線となった長井坂城跡。赤城山西麓のゆるやかな裾野の一端に城跡はありましたが、眼下には利根川によって浸食された比高200mもある断崖があって、下から上がる沼田街道を城内に取り込むように縄張りされた要衝地でありました。現状の遺構は、これぞ後北条氏流といわんばかりの兵站基地の構造で、大軍勢の駐屯や物資の補給に対応していたことが即座に想像できました。周辺は現在群馬県特産のこんにゃく畑が一面に広がっていますが、関越自動車道の長井坂トンネルの真上にあり、はるか北西に沼田方面が見通せるなど天気のよい時にまた訪れてみたい場所でした。

現在は花壇が美しい公園になっている沼田城跡

初日最後の見学地は、真田昌幸の長男・信之が沼田領2万7千石の初代城主となった沼田城跡。元々は、享禄~天文年間に在地領主であった沼田氏が築城し、その後、永禄3年の上杉謙信の関東出陣以降、沼田城は上杉氏の関東経営の拠点となりましたが、謙信死後の天正6年の「御館の乱」を契機に天正8年には武田氏家臣の真田昌幸が入城します。武田氏滅亡の天正10年3月以後は織田氏の家臣・滝川一益が上野に入部し沼田城主となりますが同年6月の「本能寺の変」後は再び真田氏が支配しています。天正17年の豊臣秀吉の仲裁による利根川を境に左岸の沼田城は北条氏が、右岸の名胡桃城は真田氏が支配するよう裁定しましたが、沼田城主の北条氏家臣・猪俣邦憲はその約束を無視して名胡桃城を占領したことから秀吉の逆鱗にふれ翌天正18年の小田原征伐のきっかけとなりました。秀吉の天下統一による徳川家康の関東入部に際し沼田城は真田氏が継承し、家康が覇権をにぎった関ヶ原の戦い後も東軍についた信之以降5代91年間にわたり真田氏の拠点城郭として運用された歴史がありますが、現在は花壇が目立つ公園に変貌しています。城跡北端からは名胡桃城方面が遠望でき、真田氏と小田原北条氏の確執にしばし想いを馳せられました。

まるで原寸のジオラマの中を歩いているかのように分かりやすい整備状況の名胡桃城跡

名胡桃城跡・二の曲輪と本曲輪を繋ぐ食い違い虎口。背後に北条氏が布陣したと伝わる富士浅間砦が聳えている

翌15日の最初の見学地は、発掘調査とともに保存整備され、昨年の大河ドラマ「真田丸」で一躍脚光を浴びた名胡桃城跡。沼田城と対峙するように河岸段丘上に築かれた中世城郭の典型ですが、発掘成果を基ととして縄張り構造とパーツの多彩さを地上で学べるよう随所に説明板が設置されていて大変解りやすくなっています。周囲をさえぎるものもなく、城の占地や役割がよく伝わってくるのか参加者は城跡の隅々まで足を運び、機能と構造を確認していました。

北条氏流の築城意図がよくわかる縄張りの中山城跡

名胡桃城跡を後ろに次に向かったのは、沼田城と岩櫃城を最短でつなぐ街道上にある中山城跡。天正10年、甲斐の武田氏が滅亡し、信長も本能寺の変で横死すると滝川一益も上野を引き上げています。同時に北条氏直、徳川家康らが旧武田領に侵攻開始。その時、真田昌幸ははじめ北条氏に帰属しますが、すぐに徳川方に転じてしまう。すると、北条氏直は真田の拠点である岩櫃城と沼田城の中間に楔を打ち込むため北条氏邦を向かわせ占拠させるわけですが、このとき当地に築かれたのが中山城で、北条氏の真田攻めの拠点に位置付けられました。城跡は、北条氏流の極意で縄張りされており、大軍勢の駐屯と物資の補給を意図した構造がよく読み取れるのか参加者は水野会長の説明に頷いていました。

岩櫃城本曲輪への登城路(竪堀)は、両側から横矢がかかる構造

最後に訪れたのは、大河ドラマのオープニング映像で印象的だった岩櫃山に構えられた真田氏の一大拠点・岩櫃城跡。大河ドラマに合わせて開設されたガイダンス棟は今も開館しており訪問者には頼もしい存在でした。ガイダンス棟から登城をスタート、大きな竪堀を超えると中城曲輪があり、次の竪堀を上り二の曲輪へと向かう。本曲輪と二の曲輪を中心に横堀・竪堀が機能的に配されており、しかも随所に横矢が掛かる巧みさは圧巻でありました。切岸の見事さ、美しさも山城ファンにはたまらない魅力でした。本曲輪で昼食をすませ、いよいよ岩櫃山登山路へアプローチ開始。とは言え、802mの険阻な岩山への登頂目的ではなく、岩櫃山の南側に位置する潜竜院跡への移動のためでした。一時間ほどの移動は、山城見学というよりも登山そのもので、変化に富んだ急傾斜や岩肌を何度も超えてはスリルを感じ、参加者一人ひとりの安全を確認しながら途中の郷原砦にようやく到りました。少し身体を休ませた後、潜竜院跡のある平原に到着。緑に覆われた地面には白い野菊が可憐に咲いていて気を取られましたが、開けた空間を見上げるとド迫力の岩櫃山の岸壁が聳え立っており感動を覚えました。
ここには真田昌幸が勝頼を匿うために三日間で造ったという御殿の石垣が歴然と残っており、歴史の無念さを今に伝えていました。もし、勝頼が岩殿城でなく岩櫃に逃れる道を選んでいたら武田氏は滅びることなく日本の歴史もきっと変わっていたに違いない。そんな想いを水野会長は参加者に切々と語りながら二日間の旅は無事幕を閉じました。参加者の皆さん本当にお疲れさまでした。(報告者:平井)

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