第257回見学会延期のお知らせ

仏坂の戦いと井伊氏一門の興亡

台風18号が見学会予定日の17日に静岡県にもっとも近づくと予想されたことから、延期することを決定しました。延期日は、10月1日になります。10月1日なら参加できる方は、若干空席がありますので「webのろし」からお申し込みください。

天気予報士が「夏は過ぎ暑い秋がやってくる」と“言い得て妙”の長期予報を発表しました。さて、今回の見学会は大河ドラマ「おんな城主 直虎」の展開と照らした企画でもあります。先般の『ふじのくに山城セミナー』記念講演で大石泰史氏が話されたように、「井伊氏の系譜は直線的ではなく、数度にわたって傍系が総領となったと考えられるが、江戸時代の公式な系図ではわからなくなっている。また、武田氏の侵攻で滅亡した支流もある」との研究報告を踏まえて、井伊氏の一族である渋川井伊氏、井平井伊氏の両居城を訪ね、井伊氏惣領家との関係を探りながらその興亡について考えたいと思います。元亀三年の武田勢の侵攻による“仏坂の戦い”は、三方ヶ原の戦いの前哨戦のひとつでした。山県勢は柿本城から仏坂・井平城をへて井伊谷に乱入し、井平氏一門・井伊谷三人衆の鈴木氏などが打撃を受けました。仏坂古戦場は旧鳳来寺街道にあり、傍らには戦死者のものとされる古墓(ふろんぼ)も残されています。古戦場のある古道を歩き、昔の戦いを少しでも体感してみたいとお思いの方にはお勧めの行程です。大勢のご参加を期待しております。

  • 実施日:平成29年10月1日(日曜日) *小雨決行
  • 見学先:渋川城跡・井伊共保の墓・渋川井伊氏の墓・東光禅院の井伊直親供養塔・柿本城跡・満光寺・旧鳳来寺街道・亀之丞隠れ岩・ふろんぼ様・仏坂古戦場・井平城跡など〔脚力レベル: 3/5 〕
  • 参加費:会員5,000円  非会員5,500円  当日朝バス内で集金
  • 乗り物:市沢バス 〔集合場所:静岡駅南口・ロータリ交差点付近〕
  • 身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
  • 担 当:川村副会長・齋藤理事・澤田理事
  • 申込み:こちらから(非会員の参加も大歓迎)
  • 日 程:※今回試験的に発着地以外の乗り降りは、東名高速のインターチェンジではなくパーキングエリア(PA)からの乗り降りとさせていただきますので、最寄りのPAをご確認のうえお申込みください。
    8:00 静岡駅南口出発 → 東名・静岡IC → 8:15日本坂PA下り → 乗車希望のPA下り → 9:10 三方ヶ原PA下り → 9:15 浜松西IC → 10:30 ~ 11:15 渋川城跡・井伊氏墓所・東光院 → 11:45 ~ 13:30 柿本城跡(昼食)・満光寺 → 13:45 ~ 16:30仏坂・井平城跡など → 16:50 浜松西IC → 各PA上り → 18:00 静岡駅南口帰着

〈主な見学先
【渋川城跡】井伊氏は、平安・鎌倉期から赤佐、奥山、井平、石岡、田沢、上野、中野等、与えられた土地名を名乗り13家以上の一門を輩出している。南北朝期の敗退後は、遠江今川氏の貞世(了俊)の九州探題赴任とともに九州南朝討伐に奥山氏等とともに従軍し犠牲者も多く出している。ところで、周知な彦根藩の井伊氏は井伊谷を本地とするが、『引佐町史』上巻に渋川の地には別系統の井伊氏が存在していたという。その根拠は、渋川集落に残る仏像銘・棟札銘等に、井伊谷井伊氏の系図には載っていない人物が表記されているからである。それは、正安(1299~)、応永(1394~)、文明(1469~)期頃の井伊直之、直秀、直幸と次郎直貞らで、同郷の東光院所蔵系図にも記載されている。なお、東光院は井伊直虎の許婚であった亀之丞(直親)が今川勢に追われた時に逃れた寺である。

東光院

渋川井平氏墓所

井伊家の通字「直」について、先学では南北朝期の九州従軍前の惣領は「●直」と下に「直」を用いるが、それ以降は「直●」と上に使うようになり、渋川井伊氏の特に「次郎直貞」は庶家にもかかわらず、惣領嫡子が使う「次郎」を名乗ることから、次第に本家井伊を凌駕し、併せて本拠も井伊谷に移したのではないかと見解していて、歴史ロマンを掻き立ててくれる。現在の渋川城跡は、西半は削り取られ改変し遺構は見られないが、地元では「スロウ(城?)」といい、地名も「殿垣戸」、周辺には「上界戸」「蔵屋敷」「馬場」など城郭地名が多く残る。東側の中段には井伊氏の祖・共保の墓と、北端地にある「渋川ボダイジュ」脇には、前述した渋川出身の次郎直貞をはじめ直之、直秀と直幸などの五輪塔、宝篋印塔が祀られている。(産経新聞『静岡 古城をゆく』水野茂 を引用)

【柿本城跡】永禄11年(1568)12月、徳川家康の今川領である遠江侵攻は、武田信玄と織田信長との和議によって同時に進められた。家康は本坂峠越え(陣座峠説もある)から侵入したが、その際に案内役を務めたのが柿本城主の鈴木重時で、菅沼忠久、近藤康用と合わせ「井伊谷三人衆」と呼ばれた。重時夫人は井伊氏一門の奥山朝利の娘であった。重時は次郎法師直虎の許婚、直親の甥にあたる。この頃に井伊直虎は地頭職を罷免され、代わりに譜代家老の小野但馬守政次(後に処刑される)が井伊領を押領して、この三人衆に井伊谷を中心とした所領を安堵する起請文を出している。柿本城が一大転機を迎えたのは、元亀3年(1572)10月、三方ケ原の戦いの導因となる信玄の遠江侵攻であった。信玄は駿河から海岸線を西進し高天神城、久野城を攻め、天竜川東岸の合代島(磐田市)へ本陣を置き、さらに重臣の山県昌景らは青崩峠から長篠を経て三信街道に位置する山吉田(現在の下吉田)の柿本城へ向かった。武田軍の侵攻が早く、同城は半造作であったのか、大軍に立ち向かうこともできず、守備していた鈴木重時の子・重好は、和議により城を明け渡し、井平(井伊氏)へ逃れたという。柿本城は独立した丘陵上にあって東西50m、南北90mの本城曲輪と廻りに二、三の曲輪が配置されているが、土塁、空堀もなく、築城途中であったことを窺わせる。(産経新聞『静岡 古城をゆく』水野茂 を引用)

【井平城跡】天文13年12月(1544)、井伊谷城主・井伊次郎に招かれた連歌師の宗牧は井平村を通過した折、その道中記『東国紀行』に「片岡かけたる古城あり之も井伊家一家の人」と井平城のたたずまいを詠じている。又細江町の式内社「蜂前神社」の古文書には、井伊直平公の嫡男で井伊家14代井伊宮内少輔直宗の井平村御在城が記録されている。

井平城土塁

鳳来寺街道

井平城は旧鳳来寺街道上の要所に在り、戦国時代「小屋」と呼ばれていた。元亀3年(1572)10月、武田信玄の将、山県三郎兵衛昌景の率いる一隊の侵攻を受け落城している。

仏坂古戦場

この付近には帯郭・土塁・土濠・井戸跡等と目される遺構が現在僅かに昔日の面影を留めている。(現地看板より。井平ふるさと会・井平観光協会)

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