御前崎市 新野郷の山城はミステリー

武田・徳川両氏の中遠・東遠城郭分布図(天正3年以降)

御前崎市には戦国時代に築かれた約13の城館跡が確認され、この新野郷には6つの山城が存在する。いずれも史料・文献はまったく見当たらず、異常なまでに密集するところは全国的に見ても類稀な地域である。ただ舟ヶ谷の城山(新野城)周辺には、「トンノヤ」・「トンノビラ」・「オオエ」(大手か)・「地蔵段」などの地名から根小屋(城下集落)の存在が捉えられ、井伊家大恩人の新野左馬助公で知られる今川系新野氏の本地であったことは評価される。

山城を築くことは、この地域が戦場になることを意味する。ここでの抗争、あるいは戦いをたどると、文明8年(1476)、今川義忠の遠江侵攻に伴う横地城・勝間田城攻めに勝利し、凱旋途中の塩買坂で残党により敗死したことは知られているが、このときは当該に山城を築くことはあり得ない。どうみても、今川氏滅亡後の武田信玄・勝頼による徳川家康領である遠江侵攻に際して、「高天神を制する者は遠江を制する」といわれた高天神城攻防が最も高い時期にあたる。武田軍の糧道(兵員・物資)を確保・供給する拠点としていたことが、長期にわたった同城の戦いと、城郭遺構の関連性から読み取れる。

武田氏の牙城であった高天神城

武田勝頼画像(法泉寺蔵)

元亀3年(1572)10月、信玄のときの遠江侵攻は相良(牧之原市)から塩の道(信州街道)に侵入し、高天神城を攻めることなく通過しことは『当代記』にあり、新野地域に山城を築くことはなかった。さらに、信玄は同12月に三方ヶ原で徳川軍を撃ち破ったが、翌年4月に伊那谷の駒場で病没した。その情報は早く家康に知れることになり、軍事行動は長篠城(新城市)などを奪還するほど迅速であった。信玄亡き跡を継いだ勝頼も一転して攻勢に転じ、天正元年(1573)12月に諏訪原城を築き徳川方の掛川城・久野城と高天神城を攻めるための拠点城を築いた。一方、翌年2月に織田信長領であった東濃の明知城(中津川市)を陥し、奥三河から東三河へ軍事行動は激甚的であった。そして、父・信玄もなしえなかった高天神城を4月に開城させたまでは良かったが、翌天正3年5月の設楽原で大敗北した。優位な軍事情勢は一変し、武田領の城郭を死守することを命じた勝頼から山県源四郎(父・昌景は設楽原で戦死)宛ての「高天神之用心寛容要候、令堅固候・・」、さらに「直参衆以下加勢候」の史料からも歴然である。このときに、新野地域に高天神城を支援し、糧道(兵粮を送る)となる軍事基地を普請したと思われる。

勝頼は、天正5年に小田原北条氏と甲相同類を結び、軍事力の立て直しを図り、同11月には徳川軍の横須賀城を包囲し攻撃態勢にあったが、突然、兵を高天神城に退くも、一か月ほど当該地域の軍事行動を続ける不可思議な行動であった。兵を退いたことについて、『改正三河後風土記』に、この度の出馬は信長を誘き出すもので、それが叶わなかったことが要因としている。

新野地域の城郭分布図

武田軍の駐屯地とした広大な八幡平の城

天ヶ谷の城平から7㎞地点の高天神城を望む

新野地域の5か城は、主要街道の塩の道が牧之原台地の「新野原」に上がり、同所から別れた支尾根上を南下すると、まず簡素であるも広い篠ヶ谷砦に入る。ここから500m進むと広大な八幡平の城が構えられ、階層性のない二郭構造は高天神城への後詰となる策源地(後方支援基地)であろう。さらに、500m進むと舟ヶ谷の城山と一直線上に繋がり、兵員移動を容易にして出撃するための陣備えの要の地になっていたと考えられる。

この3か城の前面に立ちはだかる天ヶ谷の城平からは高天神城と徳川軍が侵入する浜道が監視できる環境にある。そして、階層性が高い曲輪配置から、釜原城と共に高天神城方面に侵入した徳川軍を迎え撃つ巨大軍事拠点であったことが首肯できよう。
しかし、徳川軍を迎え撃つだけならば、これだけの巨大城郭群は無用である。勝頼の遠江侵攻と高天神城死守は、亡き信玄の遺志であった信長包囲網を引き継ぐもので、標的はあくまでも信長を誘き出し 迎撃するための装置であったとことが類推されてくる。(文責:水野 茂)

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