第261回見学会(一泊二日)ご案内

一泊見学会は、「国司大名・北畠氏と伊勢の山城シリーズ」を計画致しました。
三大国司大名の一人北畠氏(他は土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏)の本城である霧山城を中心とし阿坂城等本城を取り巻く支城群を訪れ、北畠氏の歴史に触れるとともに織田信長の伊勢侵攻を考える良い機会ですので奮ってご参加ください。
夕食は伊勢の山海料理を堪能するコースを用意しています。春の伊勢路を楽しんでください。

  • 実施日  平成30年4月21日(土)・22日(日)
  • 見学地  三重県松坂市・津市美杉町多気
  • 難易度  5段階中4
  • 担当者  望月保宏・小川 勝 (サポート乗松 稔)
  • 参加費  会員=23,000円  非会員=24,000円
    (交通費・宿泊費・夕食小宴会含む)
  • 宿 泊 『東横イン伊勢松坂駅前』
  • 小宴会  『伊勢庄や松阪駅前店』
  • 日 程(高速道の渋滞・事故や天候等によりコース変更あり)
    4月21日(土)
    7:30  JR静岡駅南口出発
    7:40  東名高速道路静岡IC
    8:30  東名高速道路袋井IC・磐田IC
    8:40  三方ヶ原サービスエリア
    11:15  一志嬉野IC
    11:30  阿坂城(昼食)
    大河内城・田丸城・松坂城
    18:00  ホテル「東横イン松阪駅前」
    18:30  小宴会「伊勢庄や松阪駅前店」

4月22日(日)  8:00  ホテル出発
9:15  美杉ふるさと資料館
10:15  北畠氏館跡・霧山城(昼食)
・滝之川城・八田城
15:30  一志嬉野IC
19:00  三方ヶ原SA・磐田・袋井IC
20:00  JR静岡駅南口帰着予定

  • 申込み 締め切りました

北畠氏館跡・霧山城】 国史跡指定
北畠氏館跡は、現在の北畠神社境内付近にあり、南北200m、東西110m程の居館である。発掘調査で館が15世紀前半に造られ16世紀まで続いていたことが明らかにされた。15世紀前半に造られた石垣も確認され、大量の青磁や京都系の土師器皿(かわらけ)も出土している。居館の南部には石が巧みに配置された池を中心とした庭園がある。居館の背後の標高400mの山頂には竪堀・堀切を擁した詰城がある。詰城からさらに山を登ると標高560mの山頂の霧山城に到達する。霧山城は南曲輪と北曲輪からなっており、南曲輪の南西端には土壇状の高まりがありその外側に堀切がある。麓から東に延びる尾根にも小規模な曲輪がある。南曲輪群から鞍部を下ると、北曲輪群との間は堀切で区分けされている。北曲輪群は土塁を持つ曲輪Ⅲ、Ⅳからなり、主要部は東西に虎口が見られる。北畠氏館、詰城、霧山城は、中世の館と山城の状況を良好に残すものとして大変参考になる。

【阿坂城】 国史跡指定
阿坂城は、北畠氏の本拠である多気と伊勢平野を結ぶ主要ルート中村川流域における重要拠点に築かれた山城で、その歴は古く南北朝の争乱にもその名が登場する。永禄十二年大河内城に拠る北畠具教を攻略するため伊勢に侵攻した織田信長の軍勢による攻撃により落城し、その後は廃城となった。
阿坂城は、東西150m、南北300mの城域をもち、北郭(椎之木城)および南郭(阿坂城)という、それぞれ異なった構造をもつ郭によって構成されている。北郭の主要部は南北に細長く土塁に囲まれ、周囲には急峻な切岸が形成され、北側斜面には畝状竪堀群が設けられており、北郭は小規模ながら様々な工夫がなされていることから戦国期の築城であると考えられる。北郭と南郭の間の尾根には堀切が数条設けられている。南郭の主郭は城域内の最高所の山頂を削平した台状地周囲の斜面を削り落とした切岸で囲んでいる。また、周囲は視界を妨げるものが無く360度の大パノラマが広がる。

【大河内城】
大河内城は、応永年間、幕府軍との戦闘に備え、伊勢国司北畠満雅によって築城された。その後、北畠顕雅が入城し、以後その一族は「大河内御所」と称した。永禄十二年織田軍との間の攻防が本城をめぐって50日も繰り広げられた後和睦が成立し、北畠氏の家督を継いだ織田信雄の居城となったが、天正三年の田丸築城に伴い廃城となった。
大河内城は、阪内川の対岸に広がる丘陵が城跡である。搦手の伝承が残る西蓮寺から登ると地元で「二ノ丸」「馬場」「お納戸跡」と呼ばれる広大な平坦地に出る。この部分は後世に開墾や植林で大きく改変され旧状は不明な点が多い。奥へ進むと「本丸」と呼ばれる曲輪に到達するが、現在は大河内神社境内地となっており遺構は改変されている。さらに奥へ進むと開墾から逃れた曲輪が現存し、堀切、土塁などが比較的良好に見ることが出来る。

【田丸城】
田丸城は南北朝期の頃、北畠親房が築いたという。親房は後醍醐天皇を吉野に迎え、南朝の中心的存在となったが、南朝は劣勢となっていく。そんな中、吉野と伊勢大湊を結ぶ街道は、南朝にとって東国と結ぶための重要路となる。田丸はその街道上に位置するだけでなく、参宮街道と熊野街道の分岐点でもある。田丸城は南朝、北朝による激しい攻防の舞台となった。興国三年、田丸城は落城するが、南北朝合一後再び北畠氏の支配となった。天正三年、北畠氏を相続した織田信雄は田丸城へ移り、三層の天守閣を築くなど大改修を行った。しかし、五年後の天正八年、火薬庫に放火され、天守を含め主要部が焼失すると、信雄は松ヶ島城を築き移って行った。その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏を経て紀州徳川家領となり久野城から移った久野氏が城代をおき、明治に至る。

【松坂城】 国史跡指定
南北朝時代以降十六世紀後半までこの地域は北畠氏の支配下にあったが、永禄十二年織田氏の支配となり、その後の変遷を経て天正十二年、蒲生氏郷が南伊勢十二万国を拝領し、天正十六年築城「松坂城」と命名、氏郷は城下町建設にも力を注ぎ、松ヶ島城下の町人の強制的移住、近江商人や伊勢大湊の商人の誘致など斬新な諸政策を実行した。天正十八年、氏郷の会津国替え後、服部一忠、古田重勝が入城し、古田氏の時代に城郭が整ったと伝えられる。元和五年、徳川頼宣が駿府から和歌山に国替えになった際、松坂城は紀州藩の領地となる。城は、標高38mの独立丘陵を利用して築かれた平山城で、北側を流れる阪内川を防御ラインとする要害の地に立地する。

【滝之川城】
城は、雲出川の支流、中村川左岸の標高100mの丘陵上に位置する。対岸には、中村川流域の拠点的な居館ともいわれる森本城がある。城の中心には主郭となる曲輪Ⅰがある。曲輪内は丁寧に削平され、曲輪の南端は一段高くなっている。曲輪Ⅰの西には広い面積を持つ曲輪Ⅱがある。主郭から西側、南側のように、山頂を削平して主郭を造り、その周囲に切岸を施し、切岸下に帯曲輪を配し、帯曲輪を竪堀で区画したうえで、背後の尾根を堀切で遮断するという手法は、北畠氏が本拠としていた旧一志郡・飯高郡の城に多く見られるものである。

【八田城】
城は、雲出川の支流、中村川右岸の標高50mの丘陵上に立地する。中村川流域には、天花寺城、釜生田城、滝之川城、矢下城、小原城、上小川城など多くの山城がある。城の中心曲輪Ⅰの東、南、西には土塁囲まれ、南側の土塁の中央には一段高くなっている。曲輪Ⅰの北西隅から北に延びる尾根には曲輪Ⅱと数段の削平地がある。曲輪の東側に虎口がある。虎口の外には小規模な土塁を配し、堀切を挟んで曲輪Ⅲがある。登城路に沿った動線には、この城の最大の見どころは防御遺構にあるので注意して見られたい。

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