第265回見学会の報告

今回の見学会は、本会が「今川義元公生誕500年祭」プレ事業の一環として行ってきた、「今川氏が三河攻めの際築いた城」シリーズの第3弾、『今川氏の境目の城』をテーマに湖西市内の宇津山城と境目城、浜松市の三ヶ日町との境にある尾奈砦。遠江と三河の国境を越した尾根上に築かれた船形山城(豊橋市)を見学しました。

最初は尾奈砦に行きました。リステル浜名湖ホテルの前でバスを降り、急なみかん畑の道を登って行き、後ろを振り返ると浜名湖の大パノラマが広がっていて、思わず歓声が上がりました。対岸には堀江城(浜松市西区舘山寺町)、佐久城(浜松市北区三ヶ日町)、千頭峯城(尉ケ峰)などが確認できました。更に道無き斜面を、足を滑らせながら登って行くと山の頂にはボロボロになった当城の案内看板が転がっています。その先に井戸址と言われる円形の窪地と斜面を掘り下げた虎口、二重の堀切と幅広の土橋が確認され、当城は単郭式の小さな城であるが、西側尾根続きに対する虎口導入路は技巧的で見事です。堀の外側は広い平坦地で、三河に攻め込む際の兵站基地であったと推定されています。

2ヶ所目は船形山城です。当城は明応(1492~)の頃多米又三郎が在城し、戸田宗光らの攻撃で落城したと云われていましたが、最近では永正14年(1517)であろうと言われています。

真言宗の普門寺門前でバスを降り、急な登山道を、息を切らし登りました。尾根上は遊歩道が整備され、多くのハイカーに出会いました。峠から西に向かって200m程行くと、当城の東側に備えた大きな堀切を越し、ここからが城内で曲輪の周囲には土塁が取り巻き、北側斜面に坂虎口が確認できました。また、北面・南面の山腹には腰曲輪が付き、西側先端に幅の狭い堀切を入れています。現在は土塁上が遊歩道となり、道以外の大部分は雑木が生茂る状態で、参加者は草木を押し分け見学していました。城址では昼食をとるスペースもなく、西側の座談山に登り浜名湖や湖西市の工場群、豊橋東部の市街地を眺めながら弁当を食べました。帰りは寺の旧伽藍址を見学、其の頃から雨が降り出し追われるように下山しました。

3か所目は境目城に向かい、城址に着く頃には天候も回復し青空も出て来て幸いでした。現地の案内は当城の縄張調査を行った望月徹さんが参加していらっしゃったのでお願いしました。 

当城は明治19年、東海道本線建設の用土として切り崩され、ほぼ消滅し、日什聖人が開山した旧跡地と伝わる付近が当時の面影を残すという事で当地を見学しました。そこには窪地にお堂が祀られ、西側の最高地点には北西側に土塁が残っていますが、ここは五輪塔や明治頃までの墓石が散在し、土取りがされた頃までの墓地の跡と思われます。

最後は宇津山城に行きました。当城は今川氏の三河侵攻の拠点城であり、今回見学した城の内では最も規模の大きな城です。当城は東域の「城山」と、西域の「高山」に主要部があり、最初は東域の「城山」を見学しました。この城山は早くから畑に耕作され、最近は荒れ放題の状態で入る事も困難な状況でありましたが、多くの参加者は竹や草を掻き分け土塁の上に登っていました。西域の「高山」は中央に土塁が残っていますが堀は埋め立てられ、土塁の南側は寺の墓地になってしまいました。この後、土塁から北側にある、内側に石積みされた土塁状の遺構を見学し、みんなで何の遺構か検証、猪垣とか、寺の結界、畑の地境等の意見が出ました。

当初の計画では見学は終わりでしたが、少し早く終了したので、サプライズとして帰り道近くにある佐久城を見学。参加者は満足の見学会であったと思われます。
                    (文責:乘松 稔 写真:澤田孝治)


                                  

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください