令和元年度「定期総会」と「ふじのくに山城セミナー」のご案内

「令和元年度定期総会」と「ふじのくに山城セミナー」のご案内をいたします。

今回の総会においては任期満了に伴う役員の改選などが議題に含まれます。また山城セミナーでは、本会の水野茂会長が30年にわたる本会での活動を振り返りつつ、自身のこれまでの城郭研究の総括とも言うべき講演をされます。続く会員3名の研究成果も本県東部、中部、西部それぞれのフィールドにおけるとても興味深い内容の発表を予定しておりますので、どうぞご期待の上、ご参加くださいますようお願いいたします。

  • 日  時:令和元年7月21日 (日)  9時30分から受付・9時45分開会
  • 会  場:静岡市東部勤労者福祉センター「清水テルサ」6階 研修室(大)
    静岡市清水区島崎町223 TEL. 054-355-3111
  • 交 通:<電車> JR清水駅・東口より徒歩で約5分
    <駐車場> 清水テルサの有料立体大駐車場が利用できます。
  • 申込み:  参加申込みはこちら
  • 締切日:7月16日(火)
  • 昼 食:各自ご持参ください。(同会館8階にレストランあります)
  • 徴 収:年会費(5,000円・会員の方)
    〇ふじのくに山城セミナー資料代(1,000円)
  • 頒 布:機関誌『古城』第63号は、当日受付にて頒布します。

《定期総会の議事内容》(9:45〜 10:45)

前年度事業報告・同決算報告・監査報告・役員改選(案)
本年度事業計画(案)・同予算(案)等について

《ふじのくに山城セミナー》
非会員の参加も大歓迎!(資料代1,000円)

1部・記念講演(10:45〜 12:15)
講師:水野 茂(静岡古城研究会)
演題:「山城発見の歴史的胎動を探る 」

 昼食(室内で食事可)・休憩 ・書籍販売
機関誌『古城』『見学会資料』などのバックナンバーはじめ、城郭関係の古書・古本等を販売します。

2部・会員の研究成果発表(13:30 〜 16:20)
⒈(13 : 30 ~ 14 : 20) 望月保宏 「総合調査から見直す韮山城」
⒉(14 : 30 ~ 15 : 20) 乘松 稔 「家康の北遠奥山侵攻と陣城」
⒊(15 : 30 ~ 16 : 20) 平井 登 「戦乱に揺れた伊久美郷の村びと」

◎閉会あいさつ

第266回見学会(一泊二日)の報告

4月20日(土)・21日(日)、当会の平成30年度の最後の見学会となる1泊見学会が、茨城県南部にあたる常陸南部~下総北部地域の城を目的地に行われました。今回は小田原北条氏の支配領域の東端にあたり、常陸北部~中部に勢力を拡大しつつあった佐竹氏との抗争の舞台となり、また各勢力に翻弄された国衆たちの城跡を訪ね、それぞれの城郭の縄張りの特徴について考察する見学会でした。参加者は20名+現地合流2名の総勢22名で行われました。

木原城にて集合写真

1日目の行程 7:30静岡駅をバスにて茨城県(常陸)に向けて出発。

【守谷城】

1城目は茨城県守谷市本町の「守谷城」を見学。守谷城は、下総千葉氏の一族・相馬氏の拠点、戦国期は古河公方家臣として、上杉(長尾)氏や後北条氏の傘下として活動。現在は、「守谷城址公園」になっていますが、城跡ゾーンには空堀で区画された後北条系の大きな曲輪が3つが有り、土塁、虎口、土橋など残る。また、公園内の水辺ゾーンはかつての湿地帯に突出した城郭の様子がうかがえました。見学後昼食をとり次の目的地へバスにて移動。

【牛久城】

2城目は牛久市城内町の「牛久城」を見学。牛久城は小田氏の一族の岡見氏の城で在ったが、戦国期は後北条氏の最前線の境目の城として在番衆が置かれた。此方も巨大な空堀を有し、堀底には畝状の凹凸が見える。かつては牛久沼に隣接する半島状の台地に築かれた総構のある巨大な城郭で、江戸時代は山口氏の牛久陣屋として一部は明治期まで存続しました。

【塙城】

3城目は、阿見町塙の「塙城」を見学。低地にあったと思われる館跡の小字「たて」をはさみ、本城・南城(南東側)と北の廓・北城(北西側)の一城別廓の形式。北城の横矢掛りを各所に配置した二重の堀は圧巻で見学者の歓声が上がっていました。

【木原城】

4城目は、三浦村木原の「木原城」を見学。木原城は土岐氏に従属した近藤氏の城。戦国末期には後北条氏の領域で、対佐竹氏の常陸戦線の最北端に位置した。現在詰曲輪(曲輪1)は「木原城山公園」となっており、詰曲輪の展望台からは霞ケ浦越しに対岸の佐竹氏の領内が見渡せる。詰曲輪内の花壇のチューリップが満開でしたので、此方で集合の記念写真を撮影。なお、稲荷曲輪~曲輪2間の横堀は1日目に見学した城郭の中で最大の空掘でした。

1日目の見学会を終え水戸市のホテルに到着、市内の居酒屋で美味しい料理と美味しい地酒を飲みながら懇親会。各テーブルでお城談義が行われました。

宿泊したホテルは水戸城に近く、早起きされた方達は、2日目の見学会出発前に水戸城の見学に行かれていました。

2日目の行程 8:15出発

【小幡城】

5城目は、茨城町小幡の「小幡城」を見学。後北条氏の築城方法と異なる巨大な堀と土塁が複雑に連なる技巧的な遺構がほぼ完全な状態で残る今回の見学会最大の見どころでした。深く幅広の堀底道を迷路のように巡らせ、主郭を中心に周囲を固めるように配置された曲輪、武者隠し、櫓跡、横矢掛りの土塁の折など、さまざまな工夫がみられ参加者は見事な縄張に感嘆して見学されていました。

【小田城】

6城目は、つくば市小田の「小田城」に到着後、昼食をとり「小田城跡歴史広場」として復元整備された城内と、説明と展示物が充実しているガイダンス施設を見学。小田城は、八田氏(のちの小田氏)の方形居館から出発し南北朝期より拡大強化を重ね、戦国期には21.7ヘクタールに及ぶ馬出や畝掘のある巨大な平城へ進化を遂げた。戦国期は小田氏治の居城で、佐竹氏、後北条氏、上杉(長尾)氏の争奪の舞台となった。

逆井城

7城目は、坂東市逆井の「逆井城(飯沼城)」を見学。「逆井城跡公園」として発掘調査を元に復元整備された二層櫓、土塀、櫓門、井楼矢倉等があり、戦国期の城郭の風景を感じる事が出来ました。また、比高二重土塁(堀の内側と外側に土塁が有り、内側の土塁を高くすることにより堀内の高低差を稼ぐ)等、後北条氏の築城法の特徴を見る事が出来ました。

以上、今回は2日間春霞がかかる天候でしたが、暑くも無く寒くもない過ごしやすい気候でした。静岡近辺のお城とは設計思想の異なる平野部に作られた、巨大な空堀と巨大な曲輪を有する土造りの城郭遺構群を見学しました。 参加者して頂いた皆様にも好評で、常陸のお城見学会の第2段を希望する声も聞こえ十分満足して頂けたと思います。また、来年度の1泊見学会も是非お楽しみにして下さい。!!(文:松永澄尚)

『古城』第63号、投稿募集について

本会機関誌『古城』は、毎年7月に発刊いたします。内容は、中世城郭に関する論文・研究ノート・調査報告です。静岡県内中世城郭を中心に日本中世史・城郭史に関するものといたします。

〇投稿の締め切りは5月末日です。できれば4月中に表題と予定ページ数をお教えください。また、会員外の投稿者は事前に連絡をお願いします。掲載に関しては、編集会議で決定の上、連絡します。

〇原稿は、できるだけ電子データ提出でお願いします。メールに添付をしていただければ助かりますが、CDなどを郵送していただいても結構です(校正のとき返却します)。手書き原稿でも受け付けますが、その場合は早めに提出をお願いします。

〇第1稿ができ次第、校正のため郵送しますので、住所及び電話番号を明記してください。

〇割り付けもお願いします。図・表は何枚目に入れるか、わかるようにしておいてください。そのため、PDFを添付するかプリントアウトしたものを郵送をしてください。念のため図・表を含めた総ページ数もお知らせください。

〇1ページは、縦書きの2段組みで各段30字×24行です。図・表を含め20ページ以内を目安にしてください。

〇郵送の場合、以下の住所に送付してください。

 424‐0818 

静岡市清水区江尻町6-21 川村晃弘 

 メールの場合は kawaki@mtg.biglobe.ne.jp  

 お問い合わせは 090‐9222‐2305 にお願いします。

第266回見学会(一泊二日)のご案内

「常陸南部の城 - 北条氏・佐竹氏の抗争の舞台を訪ねる -」

   

 現在の茨城県南部にあたる常陸南部~下総北部地域は戦国期、小田原北条氏の支配領域の東端にあたり、常陸北部~中部に勢力を拡大しつつあった佐竹氏との抗争の舞台となった。その抗争に関わった城跡を訪ね、それぞれの城郭の縄張りの特徴について考察する。

  • 実施日 平成31年(2019) 4月20~21日(土~日)
  • 見学地 【1日目】守谷城(守谷市)、牛久城(牛久市)、木原城(美浦村)、塙城(阿見町)【2日目】小幡城(茨城町)、小田城(つくば市)、逆井城(坂東市)
  • 宿泊地  ホテル東横イン水戸駅南口  茨木県水戸市桜川2-3-40
  • 担当者  望月保宏・平井 登・松永澄尚 
  • 参加費  会員 23,000円、非会員 24,000円
  • バ ス  市沢バス(28人乗りバス)※定員になり次第締め切ります
  • 締切日 平成31年4月10日(水)
  • 日 程(予定)※雨天決行 ※いずれも平城ですので見学は楽です!

【1日目】  7:30 静岡駅南口集合、出発 ⇒  7:40東名静岡IC

8:10 富士川SA ⇒  8:40 足柄SA (東名→首都高速→常磐道 谷和原IC)

11:30~12:45 守谷城見学(昼食) ⇒  13:30~14:15  牛久城見学

15:00~15:30 木原城見学 ⇒  16:00~17:00 塙城見学
(常磐道桜土浦IC→水戸IC)

18:30 ホテル着 東横イン水戸駅南口(℡ 029-221-1045)

19:00~21:00  懇親会(水戸駅北口近く「満月城」2h飲み放題)

【2日目】  8:15 ホテル発

 9:00~10:30  小幡城見学(常磐道岩間IC→土浦北IC)

11:30~13:00  小田城見学(昼食)⇒ 13:45~14:45  逆井城見学

(圏央道 境古河IC→東名)

18:00 足柄SA ⇒ 18:30  富士川SA

19:00 東名静岡IC ⇒ 19:10  静岡駅南口着、解散

見学先の概要

【守谷城】 築城年代は定かではないが相馬氏によって築かれたと云われる。 大永5年(1525)には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが確認されている。戦国時代には古河公方に従い梁田氏の配下となっていたが、小田原北条氏の勢力が伸びてくると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏によって接収された。北条氏は永禄11年(1568)に守谷城を改修している。当初は古河公方足利義氏の御座所となるような話もあったようであるが、結局実現しなかった。天正18年(1590)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ相馬氏もまた没落した。城は低湿地帯に突き出す台地に築かれており、現在は守谷城址公園となっている。公園には大きく三つの曲輪があり、それぞれ大きな空堀で区画されている。中央の曲輪には土塁や虎口、土橋などが確認できる。

守谷城Ⅳ郭・Ⅴ郭間の堀切

【牛久城】岡見氏によって16世紀半ば頃に築造された。同城は後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。 天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地ともなり、堅城として知られた。 天正14年(1586)から翌年にかけて、下妻の多賀氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城させられたが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。その後防衛のため城主岡見治広は北条軍の駐留を許す事になる。しかしながら、牛久城は天正18年(1590)に豊臣秀吉軍の小田原攻めの際開城に至った。 そして、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後の元和9年(1623)に廃城となった。

牛久城Ⅱ郭北側の堀

【木原城】築城年代は定かではない。 永禄5年(1562年)には江戸崎城主土岐氏の家臣近藤薩摩守が木原の地に取り立てられており、この頃には木原城が築かれていたといわれる。軍記物などでは天正2年(1574)に小田氏の家臣江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、木原城は攻められて落城、天正11年(1583)には葦名盛重など佐竹軍によって攻められ落城、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で木原城主は江戸崎城とともに北条方となり落城、と三度落城しているが、『図説 茨城の城郭』によれば、発掘調査では焼土や土塁の作り直しなど激しい戦闘の痕跡は確認されていないという。また同書では、土岐氏あるいはその家臣である近藤氏といった小勢力が、現状のような巨大な城郭を築いた背景として、永禄6年(1563)に土岐氏と小田原北条氏が同盟関係となり、天正元年(1573)に佐竹氏が小田氏の支城である宍倉城や戸崎城を攻め落とし、土岐氏の勢力範囲と隣接するにあたって北条氏が土岐氏を支援した結果ではないかと推測している。

木原城展望台よりⅡ郭方面を望む

【塙城】阿見町塙の小字「たて」を中心として、台地の突端部に築かれた城で、遺構が良い形で残存している。特に「たて」の地には本郭、二の郭があり、土塁、空堀、帯郭、隅櫓跡などが見られる。この北側には、低地をはさんで丘陵があり、この丘陵には三重構造の空堀と土塁が残っている。このことから、低地は家臣団の居住区と判断され、また地形から水の手とも考えられる。「たて」の地名からみて、本郭、二の郭の地は古い時代に館として築かれ、戦国後期の土岐氏の時代に、堅固な戦国様式の城郭に改造されたと推察され、本郭北方の三重の堀も新しい構築だと思われる。土岐氏による改造の時期は、永禄5年(1562)に木原に近藤氏が入った後で現在の阿見町域が土岐領に帰した頃、すなわち永禄前期と推定される。

塙城主郭周辺

【小幡城】寛政川の右岸に開析された舌状台地の先端に位置する。この地は常陸国府(石岡市)から水戸方面に通じる陸前浜街道の途上にあり、街道の中継地点であった。構造は7つの曲輪から構成される。大手はⅦ郭の西側にあり、道なりに進むと虎口に至る。Ⅰ郭(本曲輪)は東西約80m、南北約50mの規模で周囲を土塁に囲まれ、巨大な空堀を隔てて西にⅤ郭、東にⅢ郭が接する。Ⅴ郭には櫓跡と思われる遺構がある。Ⅰ郭の虎口は南側にあり、土橋状の遺構を通じてⅣ郭につながる構造となっている。城郭史については地域の土豪である小幡氏の居城であるとされているが不明な点が多く、謎の多い城である。発掘調査により15世紀代に遡る遺構・遺物が認められることから、築城は15世紀代と考えられている。茨城県内の中世城郭で、小幡城ほど保存状況が良く、巨大な遺構をもつ城郭は見当たらず、中世城郭の雰囲気を味わうには格好の城である。

小幡城Ⅵ郭東側堀

【小田城】宝篋山の南西の尾根のふもとに造られている東西約1km、南北約700mの平城である。戦国時代は湿地帯であったので、城附近の堀のほとんどが水堀であったと思われるが、現在は多く水田になっている。城の中心部に東西120m、南北140mの方形の主郭があり、土塁と濠に囲まれている。土塁の西・東・南の隅には櫓台が認められる。主郭周辺の郭には、馬出しや帯曲輪跡がある。濠や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、虎口には馬出しの他に枡形も見られる。同城は鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖・八田知家が文治元年(1185)に常陸国守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると言われる。 その後、南北朝期には、当主・小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房なども入城している。 下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。氏治は永禄12年(1569)の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなり、翌元亀元年(1570)に太田資正が城主になり、同3年(1572)に資正の子の梶原政景が城主になった。のち、佐竹氏の一族・小場義成が城主になったが、慶長7年(1602)に佐竹氏の秋田移封に伴い廃城になった。

小田城主郭南東土塁上より筑波山方面を望む

【逆井城】北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。江戸時代前期以前には飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在しており、城はこの沼の歪曲部に位置していた「後ろ堅固の城」でもあった。同城の築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立したため、後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け同城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わるが、落城時期には異論もある。後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577)同氏の最新の技術が投入され、「飯沼城」として生まれ変わった。同城には玉縄城主北条氏繁が入り、下野・常陸方面への侵攻の最前線として佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。翌天正6年(1578)氏繁は同城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだが、同18年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦で後北条氏が没落したのに伴い、廃城となった。城跡は発掘調査の後城址公園として整備され、井楼櫓や土塀などが復原されており、往時の姿を偲ばせてくれる。

逆井城復原櫓及び土塀

第265回見学会の報告

今回の見学会は、本会が「今川義元公生誕500年祭」プレ事業の一環として行ってきた、「今川氏が三河攻めの際築いた城」シリーズの第3弾、『今川氏の境目の城』をテーマに湖西市内の宇津山城と境目城、浜松市の三ヶ日町との境にある尾奈砦。遠江と三河の国境を越した尾根上に築かれた船形山城(豊橋市)を見学しました。

最初は尾奈砦に行きました。リステル浜名湖ホテルの前でバスを降り、急なみかん畑の道を登って行き、後ろを振り返ると浜名湖の大パノラマが広がっていて、思わず歓声が上がりました。対岸には堀江城(浜松市西区舘山寺町)、佐久城(浜松市北区三ヶ日町)、千頭峯城(尉ケ峰)などが確認できました。更に道無き斜面を、足を滑らせながら登って行くと山の頂にはボロボロになった当城の案内看板が転がっています。その先に井戸址と言われる円形の窪地と斜面を掘り下げた虎口、二重の堀切と幅広の土橋が確認され、当城は単郭式の小さな城であるが、西側尾根続きに対する虎口導入路は技巧的で見事です。堀の外側は広い平坦地で、三河に攻め込む際の兵站基地であったと推定されています。

2ヶ所目は船形山城です。当城は明応(1492~)の頃多米又三郎が在城し、戸田宗光らの攻撃で落城したと云われていましたが、最近では永正14年(1517)であろうと言われています。

真言宗の普門寺門前でバスを降り、急な登山道を、息を切らし登りました。尾根上は遊歩道が整備され、多くのハイカーに出会いました。峠から西に向かって200m程行くと、当城の東側に備えた大きな堀切を越し、ここからが城内で曲輪の周囲には土塁が取り巻き、北側斜面に坂虎口が確認できました。また、北面・南面の山腹には腰曲輪が付き、西側先端に幅の狭い堀切を入れています。現在は土塁上が遊歩道となり、道以外の大部分は雑木が生茂る状態で、参加者は草木を押し分け見学していました。城址では昼食をとるスペースもなく、西側の座談山に登り浜名湖や湖西市の工場群、豊橋東部の市街地を眺めながら弁当を食べました。帰りは寺の旧伽藍址を見学、其の頃から雨が降り出し追われるように下山しました。

3か所目は境目城に向かい、城址に着く頃には天候も回復し青空も出て来て幸いでした。現地の案内は当城の縄張調査を行った望月徹さんが参加していらっしゃったのでお願いしました。 

当城は明治19年、東海道本線建設の用土として切り崩され、ほぼ消滅し、日什聖人が開山した旧跡地と伝わる付近が当時の面影を残すという事で当地を見学しました。そこには窪地にお堂が祀られ、西側の最高地点には北西側に土塁が残っていますが、ここは五輪塔や明治頃までの墓石が散在し、土取りがされた頃までの墓地の跡と思われます。

最後は宇津山城に行きました。当城は今川氏の三河侵攻の拠点城であり、今回見学した城の内では最も規模の大きな城です。当城は東域の「城山」と、西域の「高山」に主要部があり、最初は東域の「城山」を見学しました。この城山は早くから畑に耕作され、最近は荒れ放題の状態で入る事も困難な状況でありましたが、多くの参加者は竹や草を掻き分け土塁の上に登っていました。西域の「高山」は中央に土塁が残っていますが堀は埋め立てられ、土塁の南側は寺の墓地になってしまいました。この後、土塁から北側にある、内側に石積みされた土塁状の遺構を見学し、みんなで何の遺構か検証、猪垣とか、寺の結界、畑の地境等の意見が出ました。

当初の計画では見学は終わりでしたが、少し早く終了したので、サプライズとして帰り道近くにある佐久城を見学。参加者は満足の見学会であったと思われます。
                    (文責:乘松 稔 写真:澤田孝治)