第268回見学会ご案内

奥伊豆の海城-白水城と下田城

令和2年最初の見学会は奥伊豆(伊豆南部)沿岸部に築かれた白水城と下田城を探訪します。白水城は15世紀後半から末頃の戦国時代初期、下田城は16世紀後半の戦国時代末期に築かれたといわれており、それぞれの縄張構造の特徴を比較し水軍を擁する「海城」の性格および構造の変遷を考察していきます。ぜひ御参加ください!

実施日:令和2年1月19日 (日) *小雨決行、悪天候(積雪等)の場合は見学先変更あり
見学先:白水城(南伊豆町)、下田城(下田市)
参加費:会員5,000円/一般6,000円
乗り物:市沢さんのバス(白/オレンジ色のバス)
乗車地:静岡駅南口・スクランブル交差点 石田街道沿い左手(スルガ銀行付近)
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
担 当:望月会長・宮川理事
申込み: 参加申込みはこちら
締切日:1月14日㈫
日 程
8:00JR静岡駅南口出発 → 8:10東名・静岡IC → 8:30★富士川SA上り → 8:50東名沼津IC(→伊豆縦貫道)→ 9:15★道の駅伊豆ゲートウェイ函南 → 10:30★伊豆急河津駅 →11:30~15:30白水城→下田城の順に見学(白水城にて昼食)→ 16:00伊豆急河津駅 →17:30道の駅伊豆ゲートウェイ函南 → 18:25富士川SA下り → 18:45静岡IC → 19:00静岡駅南口着・解散
※途中乗車(上記3箇所★印)を希望される方は明記して下さい。

〈見学地の概要〉 
【白水城(長津呂城)】
石廊崎港の東側にそびえる鍋浦山の標高約60mの山上に築かれた城郭で、遺構が明確に認められる城域の範囲は東西約130m、南北約120mの規模となっている。主要部は、山頂部を本曲輪(主郭)とし、南東‐北西に曲輪が連なる連郭式の構造を呈している。 それらの曲輪には東~北側には高い土塁が築かれており、一部緩斜面のある北側からの敵の攻撃に備えている。西側中腹にある石組みの井戸からきれいな水が湧いていることが同城の名称の由来となっている。一方、堀切を隔てた東側部分にも土塁で囲まれた曲輪が存在する。 同城の築城及び機能した年代であるが、文献については同時代史料で確実なものは一つもなく考古学的な発掘調査もされていないため、年代的な手がかりはほぼ皆無といってよい。一般的には15世紀後半もしくは末の宗瑞の伊豆進攻の頃に築かれと考えて大過ないのではないか。また、その築城主体は地元長津呂の土豪である御簾氏が関与していたことが考えられる。
【下田城】  
下田港の南側、下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる半島状の丘陵に築かれた海城である。 同城は、丘陵の最頂部標高約69m地点周辺の旧来「天守台」と称されてきた平場を本曲輪(主郭)として北西から南東に伸びる尾根を主軸とし、そこから三方に伸びる支尾根を削平して曲輪群を設けている。これらの曲輪群は幅約10~15m程と狭く、長さ約300mの大土塁又は「長城ライン」とでも呼べるような、南及び西側方面からの敵の攻撃から守る機能を果たしていたと考えられる。なお狭小な本曲輪は、見張り所としての櫓台程度の建物が設けられていたと考えられ、現在も岩盤を穿った柱穴状の遺構が認められる。 更に曲輪群の南側には幅約5~7m、長さ500m余りの長大な横堀が設けられ、その多くは内部に畝を設けた「障子堀」で、韮山城や山中城など、後北条氏が天正末期に築いたと思われる城郭の障子堀とほぼ同程度の大規模なものである。 主要部の曲輪群のラインの北側には4本の支尾根が延びており、そのうち北側の2本の尾根上には明確な遺構が認められる。二本の尾根のそれぞれの南側斜面には、段差をつけた障子堀が設けられ、海岸から谷伝いに攻め込む敵からの防禦が目的である。2本の尾根のうち北端に位置する曲輪は長さ約250m余りあり、北端の小尾根には幅3〜4mの堀切が設けられている。 以上述べてきた曲輪群に守られるような形で同城の北側中腹に位置する広大な曲輪は、史料にみえる「寺曲輪」と考えられ、船着場に直結し城主の居館等の主要施設があった区域と推定される。 一方、鵜島丘陵の西側にも所々に曲輪状の削平地や堀切状の遺構が認められるが、丘陵東側に比べて明確な遺構はなく、未完成のまま廃城に至った可能性もある。

第267回見学会の報告

令和元年11月17日、元号が令和となって初の見学会、「“北遠の雄”天野氏の城」が実施されました。今川氏から徳川氏、そして武田氏へと主君を渡り、強国の狭間で翻弄されつつも戦い続けた天野氏。その天野氏の城の中から、今回は平尾城、犬居城、萩野城を選び、その縄張りから天野氏が遭遇した時代背景、状況を参加者全員で考察しました。 今回、参加いただいた当会顧問、乗松稔氏に現地での解説を特別にお願いしました。
 

【平尾城】 最初の見学地は平尾城です。天野氏の本拠地とされる犬居城から気田川を挟んだ東1キロメートルに位置する。西に気田川、南に不動川、東に金平沢と三方を自然の要害に囲まれた高台の平尾集落の背後にそびえる山上に平尾城がある。山上を削平し主郭とし、数段の腰曲輪と主郭を中心に東・西・北の三方の尾根にそれぞれ一本ずつ堀切を設けただけのシンプルな城ですが、当日の素晴らしい天候も相まって日当たりのよい南側の集落を見下ろす立地、平尾集落そのものの要害性など「かつては天野氏の本拠地だったのでは?」という説にも頷けます。当時の国人領主の生活空間を想像するには良いモデル空間でした。

【犬居城】 2つ目の見学地は犬居城です。天野氏の居城と伝わるも築城時期など城史は不明とされ、『三河物語』の天正2年の「犬居城攻め」で初めて記録に登場する。元亀三年の武田信玄による遠州侵攻が開始されると天野氏は信玄に内応し、犬居郷は武田領となる。犬居城の遺構を見ても、馬出や横堀など武田氏の築城技術が注がれた城である事は確実で、『三河物語』の時期とも一致します。 「まるで丸子城だね!」参加者の多くがその類似性に目を輝かせていました。 遺構の規模などは比べようもありませんが、パーツの配置など間違いなく後の丸子城にフィードバックされた技術が随所に見られます。昼食後には少人数のグループに分かれ各々横堀や馬出に集い、縄張り談義に話を咲かせておりました。

 【萩野城】 今回の見学会最後の見学地は犬居城から北東7㎞に位置する萩野城です。 『遠江国風土記伝』に「古老曰ふ、天野美濃の住居にして天正二年敗る」と記すのみで城史は不明。牧野集落から北西の筏戸集落を結ぶ古道が同城のある尾根を通っており、関所的な役割を担っていた。長篠合戦後の天正四年に徳川氏による犬居城攻めが再開され、萩野城の東5㎞地点にある樽山城が落城している事から、同時期に徳川氏により攻め落とされた可能性が考えられます。 城の主要部は犬居城と同じく山上を削平した階段状の曲輪で構成され、古風な縄張り感が否めない。しかし、城の前面にあたる北側の幅8mにも及ぶ土橋付きの大堀切、そして城の西側斜面に続く横堀など、犬居城に通じる遺構も見られる事から、天野氏独力による改修か、武田氏の手によるものか、はたまた徳川氏が攻略後に再利用した時の改修か、参加者の間で様々な意見交換がおこなわれました。
10月に下見に来た時は悪天候の中、散々でしたが、本番は素晴らしい天気に恵まれ、有意義な見学会を参加者全員で楽しむ事ができました。
(文責:望月 徹 /写真:稲垣雅一、望月 徹)

第267回見学会のご案内

北遠の雄!天野氏の城

ー犬居城・平尾の城山・萩野城ー

秋のおとずれとともに、山城めぐりが楽しくなる季節となりました。
さて、11月の見学会は4月見学会より実に半年ぶりの開催となりました。
今回のテーマは「天野氏の城」です。今川氏没落後、武田氏、徳川氏の抗争に翻弄された“北遠の雄”天野氏の本拠地である犬居城を中心としたおびただしい数の支城群は全国に類を見ないと言われております。今回は犬居城とその支城群の中から平尾の城山と萩野城をピックアップし、その縄張りと天野氏の戦いを皆さんと一緒に考察していきたいと考えております。

実施日:令和元年11月17日(日曜日) *小雨決行、大雨の場合は中止。
見学先:〈浜松市天竜区春野町〉犬居城・平尾の城山・萩野城 〔脚力レベル:4/5〕
参加費:会員5,000円 非会員5,500円  当日朝バス内で集金 
乗り物:28人乗りバス(バスが代わりました)
出発地:静岡駅南口・スクランブル交差点 石田街道沿い左手(東側)付近
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
担 当:望月会長・望月事務局長 
締切り:11月11日(月)迄
申込み: 参加申込みはこちら
日 程:8:00 JR静岡駅南口出発 → 東名・静岡IC → 8:20 東名・日本坂PA下り※乗車希望の場所(東名日本坂PA・JR掛川駅南口)を申込の際、明記してください → 8:50 東名・掛川IC → 9:00 JR掛川駅南口 → 10:00 ~ 16:00の間に見学先を順次探訪 ❶平尾の城山 → ❷犬居城(昼食)→ ❸萩野城 → 17:00 JR掛川駅 → 17:10 東名・掛川IC→ 17:40東名・日本坂PA → 東名・静岡IC → 18:00 静岡駅南口帰着・解散

【見学先の概要】
【犬居城】天竜川支流の気田川が犬居集落で大きく蛇行する北西岸の、通称「鐘打山」に築かれた。対岸の若身集落と森町からの山塊から下ってきた秋葉街道(信州街道)を扼す要衝・要害地に占地する北遠の雄、天野氏の居城。 丸馬出、横堀など随所に見られる武田系の手法は、後の丸子城などに通じる築城技術そのものであり、徳川家康による北遠侵攻が激化するきっかけとなった天正3年の長篠の戦い以降に強化されたものと類推される。
【平尾の城山】 平尾の城山は犬居城の東1km、気田川対岸の村に位置する。南に不動川、東に金平沢が入り込み、西は気田川に侵食され切り立った地形で三方は自然の要害に守られている。 平尾集落に、「平尾の裏山を本城と云い、犬居城の支城として若身の城山と矢文で連絡しあった。」と伝わる伝承を元に新たに確認された城である。
【萩野城】 萩野城は犬居城の北東7kmに位置し、北側を熊切川、南側を大ボラ沢の支流が流れ、二つの川が両側から最も接近した位置にある山上に築かれ、この山を通る筏戸集落と牧野集落を結ぶ道をおさえる役割を担っていたと思われる。階段状に小さな曲輪を連ねただけの、一見古風な縄張りの様に思われるが、西側に見える蔀を設けた横堀構造など、天正期に改修を受けた可能性が伺える。

歴史シンポ in Biviふじえだの報告

今川義元公 生誕500年企画 

「今川氏の城郭と合戦」が大盛会!

令和の新時代を迎えた今年は、伊勢宗瑞(北条早雲)没後500年、今川義元生誕500年という、静岡県に所縁のある戦国大名に関する記念すべき年となっています。当会も7月の定期総会を経て、望月保宏新会長を中心とした新時代がスタート。最初の事業として9月15日、今川義元公生誕五百年企画として歴史シンポジウム「今川氏の城郭と合戦」を藤枝市の静岡産業大学藤枝駅前キャンパスBiViキャンで開催しました。  

小和田哲男名誉顧問の基調講演をはじめ、会員4人が従来の定説に挑む研究発表を披露。前藤枝市長で元静岡放送キャスターの松野輝洋さんをコーディネーターに迎え、「縄張りから捉える今川氏の戦い」をテーマにした討論会を繰り広げました。定員を上回る約130人の来場者の中には著名な研究者も多数みられ、本会の研究に対する関心の高さが窺えました。小和田名誉顧問は「~駿府今川館の実像は~駿府城の発掘成果から」をテーマに講演。寿桂尼の遺言や伝承で、幻の今川館が駿府城の下に眠っていると推定される中で昭和57年、城内の発掘調査で館の遺構が発見された感動を振り返り、出土品の永楽通宝や陶磁器、金細工について解説しました。太閤検地の時代に駿河、遠江、三河の3国で70万石に満たない石高の今川氏が、桶狭間合戦で2万5000人ともいわれる兵力を動員できた背景には、商人を優遇した政策、東海道や太平洋の海運、安倍川や大井川の上流で行っていた金の産出で培った経済力があったことを説明しました。現在、発掘調査が行われている駿府城天守閣については、家康大御所時代の天守台の外れから、中村一氏時代の天守台の一部と約330点の金箔瓦が発見された成果を紹介しました。「一氏は家康が築いたばかりの五カ国時代の駿府城にそのまま入った」という従来の定説に対し、「家康の城を壊して自分の城を築いた」という説を提唱。「大御所時代の城の下に中村時代の城、その下に五カ国時代の城、その下に今川館の痕跡が見つかるのでは」と可能性を示しました。  

 水野茂名誉会長は「永享の乱と謎の狩野氏城郭」をテーマに発表。沼舘愛三氏が戦前に立てた「慈悲尾背後の山城が安倍城」とする定説を検証しました。平成8年に静岡古城研究会で発見した大篠山城(静岡市葵区蕨野・柿島)について、南麓の玉川地区に狩野姓が多く、武田氏に仕えた狩野弥次郎の存在から、「永享の内乱期に狩野氏が拠った奥城で、前身は南北朝期の安倍城だった」と考察。山自体の峻険な要害性に依拠している点が南朝系の城郭に酷似している点も指摘しました。一方、従来の安倍城については、狩野氏の領地外に位置していると強調。建穂寺城および徳願寺城と3城を並立させた運用が考えられ、東海道を幹線にして西側から入る糧道構造と広大な駐屯地が一致しており、将軍足利義教の命で導入された斯波氏が入ったとする考えを示しました。大篠山城の現地調査で体調を崩した後に心臓手術を受けたエピソードも紹介し、「まさに命懸けの調査となった。広域な安倍山には狩野氏の巨大山城がこの他にも眠っているはず。後に続く研究者に調査を託したい」と期待を寄せました。  

望月会長は「義忠・氏親の遠江侵攻と城郭」をテーマに、遠江の奪還を目指す今川義忠・氏親の親子2代の4次にわたる40年間の戦いを、勝間田城、横地城、高藤城、松葉城、三岳城といった関連城郭の遺構と関連させて概観しました。いずれの城も、16世紀後半に徳川氏や武田氏による改修もしくは後世の開発行為を受けており、当時の城郭遺構として明確に峻別できるものはないと説明。これらの城は今川氏が攻めた城であり、今川氏側の城郭の実態については不明な点が多い現状を確認しました。史料によれば、氏親は寺院などを陣所にしたことがあり、今後の史料の精査、寺院跡や土豪屋敷の発掘調査の蓄積などにより実態の解明を期待。「三河や北遠、駿河東部などの事例と比較検討しながら同時期の今川氏の城館について研究を進めていきたい」と意気込みを話しました。  

平井登副会長は、「『花蔵の乱』城郭から見る真相」をテーマに、玄広恵探がどのような経路で追い込まれて自害したのかを検証。小和田名誉顧問らが書籍などで示した「義元派は方上城を落とした後に二手に分かれ、葉梨城と遍照光寺城を攻めた」という定説に一石を投じて乱の実像に迫りました。平成19年に葉梨城周辺を悉皆調査して発見した桂島陣場、遠見番所、村良支塁、入野支塁および義元派の岡部氏と朝比奈氏の拠点城郭、一次資料に登場する恵探派の方上城、葉梨城を基に義元派の侵攻ルートを確認。桂島陣場は遠見番所と二つの支塁と連携性があり、岡部氏の朝日山城や朝比奈氏の朝比奈城を後詰めと捉えた場合、義元派の布陣は朝比奈城の出城である上の山城も取り込んだ南北7㌔にわたる範囲になるという。鶴翼の陣形に配置した城砦群から恵探派の城を同時に攻撃。恵探は唯一の尾根伝いに敗走せざるを得なかったと考察。「恵探の抹殺でしか乱が収まらないと睨んだ義元派の周到な戦術と戦法を桂島陣場の遺構が物語っている」とまとめました。  

川村晃弘副会長は「河東一乱と城郭」をテーマに、今川氏と後北条氏が富士郡や駿東郡で壮絶な戦いを繰り広げたという定説を検証しました。戦いの意義については「後に武田氏を交えて再び同盟を結んでおり、今川氏は三河へ、後北条氏は関東への侵攻が遅れ、両氏にとって必要のない争いだった」と分析しました。この戦いで今川義元が最初に入ったとされる善得寺城については、確かな史料に記載がなく、地形が城跡とは考えられない―などの問題点を挙げ、善得寺そのものに布陣したと考え、「城は存在せず、近くの城山を砦として防御した」と推定しました。両氏は侵攻した先で国衆や敵対勢力に対する多くの城砦を構え、調略を行ったが、富士郡や駿東郡ではそのような動きが確認できないことも合わせて指摘しました。その上で「大名間の都合が前面に出ており、決戦を指向しない外交や交渉が中心で激しい戦いはなかった。互いに正面に敵を抱え、背中で殴り合いをしていた感じになる」と考察しました。  

討論会ではパネリスト5人の講演や発表を振り返るとともに、今川系城郭の特徴について話し合いました。遺構が風化や改修によって不明瞭であり、山城はシンプルな連郭式、平地の居館は方形が基本になっている―といった意見が挙げられ、小和田名誉顧問は「今川系城郭には北条系の障子堀、武田系の丸馬出といった指標はなく、特徴がないのが特徴。今川氏の城と合戦に理解を深める有意義な一日になりました」と締めくくりました。 (文責:金剌信行)

『古城』第63号、投稿募集について

本会機関誌『古城』は、毎年7月に発刊いたします。内容は、中世城郭に関する論文・研究ノート・調査報告です。静岡県内中世城郭を中心に日本中世史・城郭史に関するものといたします。

〇投稿の締め切りは5月末日です。できれば4月中に表題と予定ページ数をお教えください。また、会員外の投稿者は事前に連絡をお願いします。掲載に関しては、編集会議で決定の上、連絡します。

〇原稿は、できるだけ電子データ提出でお願いします。メールに添付をしていただければ助かりますが、CDなどを郵送していただいても結構です(校正のとき返却します)。手書き原稿でも受け付けますが、その場合は早めに提出をお願いします。

〇第1稿ができ次第、校正のため郵送しますので、住所及び電話番号を明記してください。

〇割り付けもお願いします。図・表は何枚目に入れるか、わかるようにしておいてください。そのため、PDFを添付するかプリントアウトしたものを郵送をしてください。念のため図・表を含めた総ページ数もお知らせください。

〇1ページは、縦書きの2段組みで各段30字×24行です。図・表を含め20ページ以内を目安にしてください。

〇郵送の場合、以下の住所に送付してください。

 424‐0818 

静岡市清水区江尻町6-21 川村晃弘 

 メールの場合は kawaki@mtg.biglobe.ne.jp  

 お問い合わせは 090‐9222‐2305 にお願いします。