歴史シンポ in Biviふじえだの報告

今川義元公 生誕500年企画 

「今川氏の城郭と合戦」が大盛会!

令和の新時代を迎えた今年は、伊勢宗瑞(北条早雲)没後500年、今川義元生誕500年という、静岡県に所縁のある戦国大名に関する記念すべき年となっています。当会も7月の定期総会を経て、望月保宏新会長を中心とした新時代がスタート。最初の事業として9月15日、今川義元公生誕五百年企画として歴史シンポジウム「今川氏の城郭と合戦」を藤枝市の静岡産業大学藤枝駅前キャンパスBiViキャンで開催しました。  

小和田哲男名誉顧問の基調講演をはじめ、会員4人が従来の定説に挑む研究発表を披露。前藤枝市長で元静岡放送キャスターの松野輝洋さんをコーディネーターに迎え、「縄張りから捉える今川氏の戦い」をテーマにした討論会を繰り広げました。定員を上回る約130人の来場者の中には著名な研究者も多数みられ、本会の研究に対する関心の高さが窺えました。小和田名誉顧問は「~駿府今川館の実像は~駿府城の発掘成果から」をテーマに講演。寿桂尼の遺言や伝承で、幻の今川館が駿府城の下に眠っていると推定される中で昭和57年、城内の発掘調査で館の遺構が発見された感動を振り返り、出土品の永楽通宝や陶磁器、金細工について解説しました。太閤検地の時代に駿河、遠江、三河の3国で70万石に満たない石高の今川氏が、桶狭間合戦で2万5000人ともいわれる兵力を動員できた背景には、商人を優遇した政策、東海道や太平洋の海運、安倍川や大井川の上流で行っていた金の産出で培った経済力があったことを説明しました。現在、発掘調査が行われている駿府城天守閣については、家康大御所時代の天守台の外れから、中村一氏時代の天守台の一部と約330点の金箔瓦が発見された成果を紹介しました。「一氏は家康が築いたばかりの五カ国時代の駿府城にそのまま入った」という従来の定説に対し、「家康の城を壊して自分の城を築いた」という説を提唱。「大御所時代の城の下に中村時代の城、その下に五カ国時代の城、その下に今川館の痕跡が見つかるのでは」と可能性を示しました。  

 水野茂名誉会長は「永享の乱と謎の狩野氏城郭」をテーマに発表。沼舘愛三氏が戦前に立てた「慈悲尾背後の山城が安倍城」とする定説を検証しました。平成8年に静岡古城研究会で発見した大篠山城(静岡市葵区蕨野・柿島)について、南麓の玉川地区に狩野姓が多く、武田氏に仕えた狩野弥次郎の存在から、「永享の内乱期に狩野氏が拠った奥城で、前身は南北朝期の安倍城だった」と考察。山自体の峻険な要害性に依拠している点が南朝系の城郭に酷似している点も指摘しました。一方、従来の安倍城については、狩野氏の領地外に位置していると強調。建穂寺城および徳願寺城と3城を並立させた運用が考えられ、東海道を幹線にして西側から入る糧道構造と広大な駐屯地が一致しており、将軍足利義教の命で導入された斯波氏が入ったとする考えを示しました。大篠山城の現地調査で体調を崩した後に心臓手術を受けたエピソードも紹介し、「まさに命懸けの調査となった。広域な安倍山には狩野氏の巨大山城がこの他にも眠っているはず。後に続く研究者に調査を託したい」と期待を寄せました。  

望月会長は「義忠・氏親の遠江侵攻と城郭」をテーマに、遠江の奪還を目指す今川義忠・氏親の親子2代の4次にわたる40年間の戦いを、勝間田城、横地城、高藤城、松葉城、三岳城といった関連城郭の遺構と関連させて概観しました。いずれの城も、16世紀後半に徳川氏や武田氏による改修もしくは後世の開発行為を受けており、当時の城郭遺構として明確に峻別できるものはないと説明。これらの城は今川氏が攻めた城であり、今川氏側の城郭の実態については不明な点が多い現状を確認しました。史料によれば、氏親は寺院などを陣所にしたことがあり、今後の史料の精査、寺院跡や土豪屋敷の発掘調査の蓄積などにより実態の解明を期待。「三河や北遠、駿河東部などの事例と比較検討しながら同時期の今川氏の城館について研究を進めていきたい」と意気込みを話しました。  

平井登副会長は、「『花蔵の乱』城郭から見る真相」をテーマに、玄広恵探がどのような経路で追い込まれて自害したのかを検証。小和田名誉顧問らが書籍などで示した「義元派は方上城を落とした後に二手に分かれ、葉梨城と遍照光寺城を攻めた」という定説に一石を投じて乱の実像に迫りました。平成19年に葉梨城周辺を悉皆調査して発見した桂島陣場、遠見番所、村良支塁、入野支塁および義元派の岡部氏と朝比奈氏の拠点城郭、一次資料に登場する恵探派の方上城、葉梨城を基に義元派の侵攻ルートを確認。桂島陣場は遠見番所と二つの支塁と連携性があり、岡部氏の朝日山城や朝比奈氏の朝比奈城を後詰めと捉えた場合、義元派の布陣は朝比奈城の出城である上の山城も取り込んだ南北7㌔にわたる範囲になるという。鶴翼の陣形に配置した城砦群から恵探派の城を同時に攻撃。恵探は唯一の尾根伝いに敗走せざるを得なかったと考察。「恵探の抹殺でしか乱が収まらないと睨んだ義元派の周到な戦術と戦法を桂島陣場の遺構が物語っている」とまとめました。  

川村晃弘副会長は「河東一乱と城郭」をテーマに、今川氏と後北条氏が富士郡や駿東郡で壮絶な戦いを繰り広げたという定説を検証しました。戦いの意義については「後に武田氏を交えて再び同盟を結んでおり、今川氏は三河へ、後北条氏は関東への侵攻が遅れ、両氏にとって必要のない争いだった」と分析しました。この戦いで今川義元が最初に入ったとされる善得寺城については、確かな史料に記載がなく、地形が城跡とは考えられない―などの問題点を挙げ、善得寺そのものに布陣したと考え、「城は存在せず、近くの城山を砦として防御した」と推定しました。両氏は侵攻した先で国衆や敵対勢力に対する多くの城砦を構え、調略を行ったが、富士郡や駿東郡ではそのような動きが確認できないことも合わせて指摘しました。その上で「大名間の都合が前面に出ており、決戦を指向しない外交や交渉が中心で激しい戦いはなかった。互いに正面に敵を抱え、背中で殴り合いをしていた感じになる」と考察しました。  

討論会ではパネリスト5人の講演や発表を振り返るとともに、今川系城郭の特徴について話し合いました。遺構が風化や改修によって不明瞭であり、山城はシンプルな連郭式、平地の居館は方形が基本になっている―といった意見が挙げられ、小和田名誉顧問は「今川系城郭には北条系の障子堀、武田系の丸馬出といった指標はなく、特徴がないのが特徴。今川氏の城と合戦に理解を深める有意義な一日になりました」と締めくくりました。 (文責:金剌信行)

令和元年度主要事業計画

9月15日(日)今川義元公生誕500年企画
歴史シンポジウム in BiViふじえだ『今川氏の城郭と合戦』
〇基調講演:小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)
「駿府今川館の実像は~駿府城の発掘成果から~」
〇研究発表(会員):水野茂・望月保宏・平井登・川村晃弘
〇討論会:縄張から捉える今川氏の戦い
コーディネーター・松野輝洋氏と5氏によるパネルディスカッション

11月17日(日)第267回見学会
「北遠の国人領主・天野氏の城と縄張り」

見学先:犬居城・樽山城
担当理事:平井登・望月徹
参加費:5,000円

令和2年1月19日(日)第268回見学会
「下田城、深根城と周辺の城砦」

見学先:下田城・深根城 他
担当理事:望月保宏・宮川茂美
参加費:6,000円

3月15日(日)第269回見学会
「設楽町名倉の城砦群」

見学先:寺脇城・清水城・鍬塚城 他
担当理事:川村晃弘・齋藤作行・澤田孝治
参加費:6,000円

4月18日(土)・19日(日)第270回見学会〈一泊二日〉
「湖北・若狭の城」

見学先:玄蕃尾城・国吉城・後瀬山城 他
担当理事:望月保宏・松永澄尚・金刺信行
参加費:24,000円

★実施月の初旬に「Webのろし」で詳細をご案内しますので、参加希望の方はその時、お申し込みください。

第266回見学会(一泊二日)のご案内

「常陸南部の城 - 北条氏・佐竹氏の抗争の舞台を訪ねる -」

   

 現在の茨城県南部にあたる常陸南部~下総北部地域は戦国期、小田原北条氏の支配領域の東端にあたり、常陸北部~中部に勢力を拡大しつつあった佐竹氏との抗争の舞台となった。その抗争に関わった城跡を訪ね、それぞれの城郭の縄張りの特徴について考察する。

  • 実施日 平成31年(2019) 4月20~21日(土~日)
  • 見学地 【1日目】守谷城(守谷市)、牛久城(牛久市)、木原城(美浦村)、塙城(阿見町)【2日目】小幡城(茨城町)、小田城(つくば市)、逆井城(坂東市)
  • 宿泊地  ホテル東横イン水戸駅南口  茨木県水戸市桜川2-3-40
  • 担当者  望月保宏・平井 登・松永澄尚 
  • 参加費  会員 23,000円、非会員 24,000円
  • バ ス  市沢バス(28人乗りバス)※定員になり次第締め切ります
  • 締切日 平成31年4月10日(水)
  • 日 程(予定)※雨天決行 ※いずれも平城ですので見学は楽です!

【1日目】  7:30 静岡駅南口集合、出発 ⇒  7:40東名静岡IC

8:10 富士川SA ⇒  8:40 足柄SA (東名→首都高速→常磐道 谷和原IC)

11:30~12:45 守谷城見学(昼食) ⇒  13:30~14:15  牛久城見学

15:00~15:30 木原城見学 ⇒  16:00~17:00 塙城見学
(常磐道桜土浦IC→水戸IC)

18:30 ホテル着 東横イン水戸駅南口(℡ 029-221-1045)

19:00~21:00  懇親会(水戸駅北口近く「満月城」2h飲み放題)

【2日目】  8:15 ホテル発

 9:00~10:30  小幡城見学(常磐道岩間IC→土浦北IC)

11:30~13:00  小田城見学(昼食)⇒ 13:45~14:45  逆井城見学

(圏央道 境古河IC→東名)

18:00 足柄SA ⇒ 18:30  富士川SA

19:00 東名静岡IC ⇒ 19:10  静岡駅南口着、解散

見学先の概要

【守谷城】 築城年代は定かではないが相馬氏によって築かれたと云われる。 大永5年(1525)には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが確認されている。戦国時代には古河公方に従い梁田氏の配下となっていたが、小田原北条氏の勢力が伸びてくると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏によって接収された。北条氏は永禄11年(1568)に守谷城を改修している。当初は古河公方足利義氏の御座所となるような話もあったようであるが、結局実現しなかった。天正18年(1590)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ相馬氏もまた没落した。城は低湿地帯に突き出す台地に築かれており、現在は守谷城址公園となっている。公園には大きく三つの曲輪があり、それぞれ大きな空堀で区画されている。中央の曲輪には土塁や虎口、土橋などが確認できる。

守谷城Ⅳ郭・Ⅴ郭間の堀切

【牛久城】岡見氏によって16世紀半ば頃に築造された。同城は後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。 天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地ともなり、堅城として知られた。 天正14年(1586)から翌年にかけて、下妻の多賀氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城させられたが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。その後防衛のため城主岡見治広は北条軍の駐留を許す事になる。しかしながら、牛久城は天正18年(1590)に豊臣秀吉軍の小田原攻めの際開城に至った。 そして、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後の元和9年(1623)に廃城となった。

牛久城Ⅱ郭北側の堀

【木原城】築城年代は定かではない。 永禄5年(1562年)には江戸崎城主土岐氏の家臣近藤薩摩守が木原の地に取り立てられており、この頃には木原城が築かれていたといわれる。軍記物などでは天正2年(1574)に小田氏の家臣江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、木原城は攻められて落城、天正11年(1583)には葦名盛重など佐竹軍によって攻められ落城、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で木原城主は江戸崎城とともに北条方となり落城、と三度落城しているが、『図説 茨城の城郭』によれば、発掘調査では焼土や土塁の作り直しなど激しい戦闘の痕跡は確認されていないという。また同書では、土岐氏あるいはその家臣である近藤氏といった小勢力が、現状のような巨大な城郭を築いた背景として、永禄6年(1563)に土岐氏と小田原北条氏が同盟関係となり、天正元年(1573)に佐竹氏が小田氏の支城である宍倉城や戸崎城を攻め落とし、土岐氏の勢力範囲と隣接するにあたって北条氏が土岐氏を支援した結果ではないかと推測している。

木原城展望台よりⅡ郭方面を望む

【塙城】阿見町塙の小字「たて」を中心として、台地の突端部に築かれた城で、遺構が良い形で残存している。特に「たて」の地には本郭、二の郭があり、土塁、空堀、帯郭、隅櫓跡などが見られる。この北側には、低地をはさんで丘陵があり、この丘陵には三重構造の空堀と土塁が残っている。このことから、低地は家臣団の居住区と判断され、また地形から水の手とも考えられる。「たて」の地名からみて、本郭、二の郭の地は古い時代に館として築かれ、戦国後期の土岐氏の時代に、堅固な戦国様式の城郭に改造されたと推察され、本郭北方の三重の堀も新しい構築だと思われる。土岐氏による改造の時期は、永禄5年(1562)に木原に近藤氏が入った後で現在の阿見町域が土岐領に帰した頃、すなわち永禄前期と推定される。

塙城主郭周辺

【小幡城】寛政川の右岸に開析された舌状台地の先端に位置する。この地は常陸国府(石岡市)から水戸方面に通じる陸前浜街道の途上にあり、街道の中継地点であった。構造は7つの曲輪から構成される。大手はⅦ郭の西側にあり、道なりに進むと虎口に至る。Ⅰ郭(本曲輪)は東西約80m、南北約50mの規模で周囲を土塁に囲まれ、巨大な空堀を隔てて西にⅤ郭、東にⅢ郭が接する。Ⅴ郭には櫓跡と思われる遺構がある。Ⅰ郭の虎口は南側にあり、土橋状の遺構を通じてⅣ郭につながる構造となっている。城郭史については地域の土豪である小幡氏の居城であるとされているが不明な点が多く、謎の多い城である。発掘調査により15世紀代に遡る遺構・遺物が認められることから、築城は15世紀代と考えられている。茨城県内の中世城郭で、小幡城ほど保存状況が良く、巨大な遺構をもつ城郭は見当たらず、中世城郭の雰囲気を味わうには格好の城である。

小幡城Ⅵ郭東側堀

【小田城】宝篋山の南西の尾根のふもとに造られている東西約1km、南北約700mの平城である。戦国時代は湿地帯であったので、城附近の堀のほとんどが水堀であったと思われるが、現在は多く水田になっている。城の中心部に東西120m、南北140mの方形の主郭があり、土塁と濠に囲まれている。土塁の西・東・南の隅には櫓台が認められる。主郭周辺の郭には、馬出しや帯曲輪跡がある。濠や土塁には、随所に折りや喰違いがあり、虎口には馬出しの他に枡形も見られる。同城は鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖・八田知家が文治元年(1185)に常陸国守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると言われる。 その後、南北朝期には、当主・小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房なども入城している。 下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。氏治は永禄12年(1569)の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなり、翌元亀元年(1570)に太田資正が城主になり、同3年(1572)に資正の子の梶原政景が城主になった。のち、佐竹氏の一族・小場義成が城主になったが、慶長7年(1602)に佐竹氏の秋田移封に伴い廃城になった。

小田城主郭南東土塁上より筑波山方面を望む

【逆井城】北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。江戸時代前期以前には飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在しており、城はこの沼の歪曲部に位置していた「後ろ堅固の城」でもあった。同城の築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立したため、後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け同城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わるが、落城時期には異論もある。後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577)同氏の最新の技術が投入され、「飯沼城」として生まれ変わった。同城には玉縄城主北条氏繁が入り、下野・常陸方面への侵攻の最前線として佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。翌天正6年(1578)氏繁は同城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだが、同18年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦で後北条氏が没落したのに伴い、廃城となった。城跡は発掘調査の後城址公園として整備され、井楼櫓や土塀などが復原されており、往時の姿を偲ばせてくれる。

逆井城復原櫓及び土塀

第265回見学会の報告

今回の見学会は、本会が「今川義元公生誕500年祭」プレ事業の一環として行ってきた、「今川氏が三河攻めの際築いた城」シリーズの第3弾、『今川氏の境目の城』をテーマに湖西市内の宇津山城と境目城、浜松市の三ヶ日町との境にある尾奈砦。遠江と三河の国境を越した尾根上に築かれた船形山城(豊橋市)を見学しました。

最初は尾奈砦に行きました。リステル浜名湖ホテルの前でバスを降り、急なみかん畑の道を登って行き、後ろを振り返ると浜名湖の大パノラマが広がっていて、思わず歓声が上がりました。対岸には堀江城(浜松市西区舘山寺町)、佐久城(浜松市北区三ヶ日町)、千頭峯城(尉ケ峰)などが確認できました。更に道無き斜面を、足を滑らせながら登って行くと山の頂にはボロボロになった当城の案内看板が転がっています。その先に井戸址と言われる円形の窪地と斜面を掘り下げた虎口、二重の堀切と幅広の土橋が確認され、当城は単郭式の小さな城であるが、西側尾根続きに対する虎口導入路は技巧的で見事です。堀の外側は広い平坦地で、三河に攻め込む際の兵站基地であったと推定されています。

2ヶ所目は船形山城です。当城は明応(1492~)の頃多米又三郎が在城し、戸田宗光らの攻撃で落城したと云われていましたが、最近では永正14年(1517)であろうと言われています。

真言宗の普門寺門前でバスを降り、急な登山道を、息を切らし登りました。尾根上は遊歩道が整備され、多くのハイカーに出会いました。峠から西に向かって200m程行くと、当城の東側に備えた大きな堀切を越し、ここからが城内で曲輪の周囲には土塁が取り巻き、北側斜面に坂虎口が確認できました。また、北面・南面の山腹には腰曲輪が付き、西側先端に幅の狭い堀切を入れています。現在は土塁上が遊歩道となり、道以外の大部分は雑木が生茂る状態で、参加者は草木を押し分け見学していました。城址では昼食をとるスペースもなく、西側の座談山に登り浜名湖や湖西市の工場群、豊橋東部の市街地を眺めながら弁当を食べました。帰りは寺の旧伽藍址を見学、其の頃から雨が降り出し追われるように下山しました。

3か所目は境目城に向かい、城址に着く頃には天候も回復し青空も出て来て幸いでした。現地の案内は当城の縄張調査を行った望月徹さんが参加していらっしゃったのでお願いしました。 

当城は明治19年、東海道本線建設の用土として切り崩され、ほぼ消滅し、日什聖人が開山した旧跡地と伝わる付近が当時の面影を残すという事で当地を見学しました。そこには窪地にお堂が祀られ、西側の最高地点には北西側に土塁が残っていますが、ここは五輪塔や明治頃までの墓石が散在し、土取りがされた頃までの墓地の跡と思われます。

最後は宇津山城に行きました。当城は今川氏の三河侵攻の拠点城であり、今回見学した城の内では最も規模の大きな城です。当城は東域の「城山」と、西域の「高山」に主要部があり、最初は東域の「城山」を見学しました。この城山は早くから畑に耕作され、最近は荒れ放題の状態で入る事も困難な状況でありましたが、多くの参加者は竹や草を掻き分け土塁の上に登っていました。西域の「高山」は中央に土塁が残っていますが堀は埋め立てられ、土塁の南側は寺の墓地になってしまいました。この後、土塁から北側にある、内側に石積みされた土塁状の遺構を見学し、みんなで何の遺構か検証、猪垣とか、寺の結界、畑の地境等の意見が出ました。

当初の計画では見学は終わりでしたが、少し早く終了したので、サプライズとして帰り道近くにある佐久城を見学。参加者は満足の見学会であったと思われます。
                    (文責:乘松 稔 写真:澤田孝治)


                                  

第265回見学会ご案内

今川氏の境目の城

ー尾奈砦・宇津山城・境目城・船形山城ー

春のおとずれとともに、山城めぐりが楽しくなる季節となりました。会員の皆さまにおかれましては、ますますご清栄にお過しのこととお喜び申し上げます。
本年、各地で開催される「今川義元公生誕500年祭」の記念事業に呼応するように本会でも昨年10月の東三河攻め、11月の西三河制圧と連続した見学会事業をおこなっています。そして今回は、「今川氏の境目の城」をテーマに、三河と遠江のまさに境目に築かれた尾奈砦・宇津山城・境目城・船形山城を訪ねます。今川氏の兵站基地としても活用された尾奈砦、東三河の国人領主戸田氏と争奪戦が行われた船形山城を、そして「宗長手記」にも登場する宇津山城等をじっくり堪能していただきます。
どうぞ、ふるってご参加くださいますようお願い致します。

実施日:平成31年3月17日(日曜日) *小雨決行、大雨の場合は見学先を変更。
見学先:〈湖西市〉尾奈砦・宇津山城・境目城 〈豊橋市〉船形山城
    〔脚力レベル:4/5〕
参加費:会員5,000円・非会員5,500円  当日朝バス内で集金 
乗り物:市沢バス(あずき色のボディカラーが目印)
出発地:静岡駅南口・スクランブル交差点 石田街道沿い左手(東側)付近
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
担 当:乗松理事・小川理事 
締切り:3月11日(月)
申込み:参加申込みはこちら
日 程:8:00 静岡駅南口出発 → 東名・静岡IC → 8:15 日本坂PA下り等、乗車希望の東名下り線PAを申込の際、明記してください → 9:00 三方ヶ原SA(トイレ休憩等)→ 9:30 東名・三ケ日IC → 10:00 ~ 15:40の間に見学先を順次探訪
 尾奈砦跡 → 船形山城跡 (昼食)→ 宇津山城跡 → 境目城跡
→ 16:10 東名・三ケ日IC → 16:20 三方ヶ原SA → 各東名PA →
東名・静岡IC → 18:30 静岡駅南口帰着・解散

〔 見学先の概容 〕
【尾奈砦】浜松市北区三ケ日町下尾奈
当城は浜名湖北岸の猪鼻湖入口西側尾根上の本城山に築かれ、西側の三河との国境まで僅か5㎞程の位置にあり、南側の浜名湖対岸2㎞に三河進攻の拠点「宇津山城」、北東側、猪鼻湖対岸3㎞には「佐久城」を望むことが出来る国境の警護を目的とした境目の城である。天文16年(1547)の田原城攻めには「日々沢城」とともに兵站基地としても使用されている。この城は単郭式の縄張りで西尾根上の縄張りは技巧的でこの城の見どころである。
【船形山城】 豊橋市雲谷町字上ノ山
 当城は、静岡県境の弓張山地から東へ派生した船形山上に築かれ、城跡の北東尾根続きには「鎌倉街道」と呼ばれる峠道が存在し、城跡南東の山腹から麓にかけては平安~戦国期に存在したと考えられる普門寺の旧伽藍跡がある。
永正14年(1517)に今川方の境目の城館として多米又三郎が在城していたが、戸田氏の攻撃を受けて落城。その後、今川方の反撃により戸田氏らは撃退されている。永禄7~11年(1564~68)頃には小笠原氏が徳川家康の命を受けて守備についている。主郭は南側を除いた三方に土塁が巡る(ただし、東端部は鉄塔建設時の削り残した痕跡とも考えられる)。主郭北東斜面下の堀切、主郭のへの虎口、南尾根上の堀切状遺構等峠道と絡む遺構が興味をそそられる縄張りである。
【宇津山城】 湖西市入出字城山
 当城は、浜名湖西岸の湖に突き出た独立丘陵に位置している山城である。丘陵は秩父古生層からなる岩山で、丘陵の西側に標高50mの高山、東側に正太寺鼻の標高25ⅿほどのなだらかな城山と呼ばれる高低差のある地形となり、北・東・南の周囲三方が天然の水堀となっている。西側に丘陵が続き、三河国との国境となる湖西連峰の山並みに至る。当城が文献に登場するのは、宗長の記録『宗長手記』である。宗長が宇津山城を訪れたのは大永7年(1527)の4月のことである。記録からは、今川氏親の家臣長池六郎左衛門親能が大永年間に堀切や竪堀を配して築城したことがわかる。享禄年間(1528~1532)以降は、朝比奈氏が三代にわたって城主となっている。永禄11年(1568)12月12日酒井忠次を先鋒に徳川の遠江侵攻が開始され、12月15日宇津山城はあっけなく落城してしまう。その後、徳川氏の手によって改修され戦略的価値を終えた天正9年(1581)頃廃城となった。
【境目城】 湖西市吉美字川尻
 永禄10年(1567)三河の地を失った今川氏が徳川家康の遠州侵出を阻止せんとして、三遠の国境である吉美の妙立寺を撤収して、曳馬城の前衛基地の一つとして益田信濃守、水野惣兵衛を普請奉行として築城したものである。しかし、永禄11年徳川方の酒井忠次勢によって攻略され落城した。明治19年東海道本線敷説にその用土として、取り崩され、現在はその大部分が畑、宅地となり南西部の一部が当時の面影を留めているのみである。朝比奈氏の守る宇津山城とは近距離にあり、徳川氏に対する軍事的補強をするための城であった。