令和2年度事業計画について

2020.7.19 役員会議

7月19日(日曜日)、静岡市駿河区の長田生涯学習センターにおいて、事前に会員に郵送しました『令和2年度静岡古城研究会定期総会の議案』について、書面表決が行われました。会員から郵送された書面表決書(委任状)が、全会員の過半数以上に達していたため、全議案が可決されました。以下に令和2年度事業計画を記しますが、新型コロナ感染拡大状況に応じて、予定を変更する場合がありますのでご了承ください。

●令和2年度定期総会    7月19日(日)   書面表決(可決)

● ふじのくに山城セミナー  7月19日(日)   中止

● 機関誌『古城・第64号』発行   8月中旬     会員に郵送

● 9月見学会  中止

● 11月見学会  中止  ※「踏査会」又は「歴史ウォーキング」開催 

令和3年

● 1月17日(日) 第269回見学会 「長泉町、裾野市の3城(葛山城、千福城、長久保城)を巡る」

● 3月21日(日) 第270回見学会 「設楽町名倉の城砦群(寺脇城、清水城、鍬塚城ほか」

● 4月17・18日(土日)〈 一泊二日〉第271回見学会「湖北・若狭の城(玄蕃尾城、国吉城、後瀬山城ほか)」

※新型コロナ感染拡大状況により、バスによる見学会が思うように実施できないことも想定されます。その場合、シーズンとなります11月以降においては、 希望者を対象とした 現地集合・解散方式の「踏査会(健脚会員向け)」又は「歴史ウォーキング(一般会員向け)」を計画実施したいと考えています。詳しくは実施する月初めに「のろし」にてご案内いたしますので、ご期待ください。

                      

第270回見学会(4/18~4/19)は中止します!

4月18日(土)、19日(日)に予定しておりました第270回見学会『若狭・近江湖北の山城-若狭武田氏の山城と賤ケ岳の合戦の陣城をめぐる-』について、新型コロナウイルスによる感染拡大が依然として懸念される状況にあるため開催を中止いたします。 会員の皆様におかれましては、先月に続く見学会の中止に大変残念な思いをされていることと心苦しい限りでございます。
「安全で楽しい見学会」を目指しての判断とご賢察いただき、ご理解をいただきますようお願い申し上げます。 なお、今回中止となりました見学会は次年度へ延期とさせていただきます。詳しい日程等は7月の定期総会にて報告させていただきます。

3月15日の見学会は中止します!

3月15(日)に予定していました第269回見学会『名倉高原の城砦群と田峯城』は、新型コロナウイルス感染拡大防止に配慮し中止いたします。また、4月18日(土)~19日(日)に開催予定の第270回見学会(一泊二日)につきましても、刻々変化する感染拡大の状況を注視しながら国等の要請に呼応し判断いたしますが、3月25日に改めてお知らせいたします。なお、中止する見学会につきましては、次年度の事業計画に組み込む予定です。

第268回見学会の報告

奥伊豆の海城-白水城と下田城

実施日:令和2年1月19日(日) 天 候:曇り 参加者:23名(内女性4名) 担当者:望月会長、宮川理事  

年明け第一弾の見学会は恒例になりつつある伊豆半島に所在する城郭、とりわけ今回は海城に特化したものとして「白水城」と「下田城」の見学会を実施しました。往路休憩地の函南ゲートウェイを通過後、国道414号線を天城の山間部を経由して伊豆急河津駅に、途中浄蓮の滝を通過するあたりから昨日の降雪のため車窓には一面の銀世界が広がり、伊豆半島山沿いの自然の厳しさを感じる景色となりました。河津駅にて電車移動の参加者を掌握した後に本日の目的地の一つである白水城へ海岸線の道路を移動、先ほどの銀世界とうって変わって海上には伊豆七島がはっきりと見ることができ、道路脇の菜の花畑には向日葵が咲いていて奇妙な季節感を味わうことができました。

白水城登城口にある駐車場に到着後、お弁当の準備をしながらの小休憩を行いながら周辺を散策すると岩肌に掘削された横穴がいくつか散見されました。おそらく旧海軍の特攻艇を格納する場所ではなかと思われます。これと同様なものが沼津市の長浜城へ行く途中の海岸線の山側にも散見されます。

白水城がいつ築城されたかを示す詳しい文献は残されておらず、唯一土肥神社所蔵の「源基氏伝帳」という書物に白水城城主は御簾三河守と記述されている程度であります。また、学術調査のための発掘調査も行われておらず先行研究ではその築城時期を15世紀末葉から16世紀初頭と比定されていますが、海城という特異性から少々謎めいた城跡といえます。登城口から少しの登ったあたりに川原石で組まれた円形の井戸があり、昔この井戸から綺麗な水が満々と湧き出ていた事に由来して白水城と名付けられたそうです。井戸跡から少し登ると曲輪跡が連続して現れ、その土塁の大きさに見学者の方々は驚いていたようです。その後更に高度を上げ大堀切を超えて最高所へ、望月会長からこの大堀切周辺は後世の開墾により改変が行われており、当時の姿を読み取るには難しいとのことでした。その後山上の曲輪跡にて昼食後駐車場へ、次の見学場所の下田城へ向かい移動しました。

 下田城は別名を「鵜島城」とも言われています。小田原北条氏により築城され、所在する岬全体が城郭で、下田港の湾口へ睨みを効かす海城として北条水軍の本拠地として機能しました。当初は北条軍団中、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入城したと伝えられ、その後伊豆衆の清水康英が城将として入城、豊臣勢来襲に備え改修が行われたそうです。

下田公園駐車場に到着し公園遊歩道を少し登ると右手に第39代米大統領のジミーカーター来日記念碑が見学者を出迎えてくれました。その反対には、寺曲輪の伝承がある広場があり、更に足を進めると「鵜島城址」の石碑があり、ここから階段を登ると伝天守台と称され本曲輪があり、その南西部にかなり規模の大きな障子堀を見ることができました。本来この障子堀は草に覆われて明瞭に見ること出来ないのですが、昨年の台風の影響で倒木被害や土塁の一部崩壊などの被害を受けていたようです。その復旧作業の一貫で倒木の撤去や堀の中の除草が行われたようで、昨年末の下見調査時よりも更に綺麗に整備されていました。山中城の障子堀にも勝るとも劣らない遺構に見学者からは絶賛の声が聞こえました。

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 ともあれ前日の悪天候とは一転し嘘のような好天に恵まれ、また静岡県最南端の白水城と北条水軍の拠点下田城を十分に堪能できた見学会だったと思います。最後に「下田城はいつ見るの?今でしょう!」それでは次回も伊豆シリーズを企画検討中です。乞うご期待下さい。 (文責:宮川茂美、写真:望月徹)

第268回見学会ご案内

奥伊豆の海城-白水城と下田城

令和2年最初の見学会は奥伊豆(伊豆南部)沿岸部に築かれた白水城と下田城を探訪します。白水城は15世紀後半から末頃の戦国時代初期、下田城は16世紀後半の戦国時代末期に築かれたといわれており、それぞれの縄張構造の特徴を比較し水軍を擁する「海城」の性格および構造の変遷を考察していきます。ぜひ御参加ください!

実施日:令和2年1月19日 (日) *小雨決行、悪天候(積雪等)の場合は見学先変更あり
見学先:白水城(南伊豆町)、下田城(下田市)
参加費:会員5,000円/一般6,000円
乗り物:市沢さんのバス(白/オレンジ色のバス)
乗車地:静岡駅南口・スクランブル交差点 石田街道沿い左手(スルガ銀行付近)
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
担 当:望月会長・宮川理事
申込み: 参加申込みはこちら
締切日:1月14日㈫
日 程
8:00JR静岡駅南口出発 → 8:10東名・静岡IC → 8:30★富士川SA上り → 8:50東名沼津IC(→伊豆縦貫道)→ 9:15★道の駅伊豆ゲートウェイ函南 → 10:30★伊豆急河津駅 →11:30~15:30白水城→下田城の順に見学(白水城にて昼食)→ 16:00伊豆急河津駅 →17:30道の駅伊豆ゲートウェイ函南 → 18:25富士川SA下り → 18:45静岡IC → 19:00静岡駅南口着・解散
※途中乗車(上記3箇所★印)を希望される方は明記して下さい。

〈見学地の概要〉 
【白水城(長津呂城)】
石廊崎港の東側にそびえる鍋浦山の標高約60mの山上に築かれた城郭で、遺構が明確に認められる城域の範囲は東西約130m、南北約120mの規模となっている。主要部は、山頂部を本曲輪(主郭)とし、南東‐北西に曲輪が連なる連郭式の構造を呈している。 それらの曲輪には東~北側には高い土塁が築かれており、一部緩斜面のある北側からの敵の攻撃に備えている。西側中腹にある石組みの井戸からきれいな水が湧いていることが同城の名称の由来となっている。一方、堀切を隔てた東側部分にも土塁で囲まれた曲輪が存在する。 同城の築城及び機能した年代であるが、文献については同時代史料で確実なものは一つもなく考古学的な発掘調査もされていないため、年代的な手がかりはほぼ皆無といってよい。一般的には15世紀後半もしくは末の宗瑞の伊豆進攻の頃に築かれと考えて大過ないのではないか。また、その築城主体は地元長津呂の土豪である御簾氏が関与していたことが考えられる。
【下田城】  
下田港の南側、下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる半島状の丘陵に築かれた海城である。 同城は、丘陵の最頂部標高約69m地点周辺の旧来「天守台」と称されてきた平場を本曲輪(主郭)として北西から南東に伸びる尾根を主軸とし、そこから三方に伸びる支尾根を削平して曲輪群を設けている。これらの曲輪群は幅約10~15m程と狭く、長さ約300mの大土塁又は「長城ライン」とでも呼べるような、南及び西側方面からの敵の攻撃から守る機能を果たしていたと考えられる。なお狭小な本曲輪は、見張り所としての櫓台程度の建物が設けられていたと考えられ、現在も岩盤を穿った柱穴状の遺構が認められる。 更に曲輪群の南側には幅約5~7m、長さ500m余りの長大な横堀が設けられ、その多くは内部に畝を設けた「障子堀」で、韮山城や山中城など、後北条氏が天正末期に築いたと思われる城郭の障子堀とほぼ同程度の大規模なものである。 主要部の曲輪群のラインの北側には4本の支尾根が延びており、そのうち北側の2本の尾根上には明確な遺構が認められる。二本の尾根のそれぞれの南側斜面には、段差をつけた障子堀が設けられ、海岸から谷伝いに攻め込む敵からの防禦が目的である。2本の尾根のうち北端に位置する曲輪は長さ約250m余りあり、北端の小尾根には幅3〜4mの堀切が設けられている。 以上述べてきた曲輪群に守られるような形で同城の北側中腹に位置する広大な曲輪は、史料にみえる「寺曲輪」と考えられ、船着場に直結し城主の居館等の主要施設があった区域と推定される。 一方、鵜島丘陵の西側にも所々に曲輪状の削平地や堀切状の遺構が認められるが、丘陵東側に比べて明確な遺構はなく、未完成のまま廃城に至った可能性もある。