第268回見学会の報告

奥伊豆の海城-白水城と下田城

実施日:令和2年1月19日(日) 天 候:曇り 参加者:23名(内女性4名) 担当者:望月会長、宮川理事  

年明け第一弾の見学会は恒例になりつつある伊豆半島に所在する城郭、とりわけ今回は海城に特化したものとして「白水城」と「下田城」の見学会を実施しました。往路休憩地の函南ゲートウェイを通過後、国道414号線を天城の山間部を経由して伊豆急河津駅に、途中浄蓮の滝を通過するあたりから昨日の降雪のため車窓には一面の銀世界が広がり、伊豆半島山沿いの自然の厳しさを感じる景色となりました。河津駅にて電車移動の参加者を掌握した後に本日の目的地の一つである白水城へ海岸線の道路を移動、先ほどの銀世界とうって変わって海上には伊豆七島がはっきりと見ることができ、道路脇の菜の花畑には向日葵が咲いていて奇妙な季節感を味わうことができました。

白水城登城口にある駐車場に到着後、お弁当の準備をしながらの小休憩を行いながら周辺を散策すると岩肌に掘削された横穴がいくつか散見されました。おそらく旧海軍の特攻艇を格納する場所ではなかと思われます。これと同様なものが沼津市の長浜城へ行く途中の海岸線の山側にも散見されます。

白水城がいつ築城されたかを示す詳しい文献は残されておらず、唯一土肥神社所蔵の「源基氏伝帳」という書物に白水城城主は御簾三河守と記述されている程度であります。また、学術調査のための発掘調査も行われておらず先行研究ではその築城時期を15世紀末葉から16世紀初頭と比定されていますが、海城という特異性から少々謎めいた城跡といえます。登城口から少しの登ったあたりに川原石で組まれた円形の井戸があり、昔この井戸から綺麗な水が満々と湧き出ていた事に由来して白水城と名付けられたそうです。井戸跡から少し登ると曲輪跡が連続して現れ、その土塁の大きさに見学者の方々は驚いていたようです。その後更に高度を上げ大堀切を超えて最高所へ、望月会長からこの大堀切周辺は後世の開墾により改変が行われており、当時の姿を読み取るには難しいとのことでした。その後山上の曲輪跡にて昼食後駐車場へ、次の見学場所の下田城へ向かい移動しました。

 下田城は別名を「鵜島城」とも言われています。小田原北条氏により築城され、所在する岬全体が城郭で、下田港の湾口へ睨みを効かす海城として北条水軍の本拠地として機能しました。当初は北条軍団中、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入城したと伝えられ、その後伊豆衆の清水康英が城将として入城、豊臣勢来襲に備え改修が行われたそうです。

下田公園駐車場に到着し公園遊歩道を少し登ると右手に第39代米大統領のジミーカーター来日記念碑が見学者を出迎えてくれました。その反対には、寺曲輪の伝承がある広場があり、更に足を進めると「鵜島城址」の石碑があり、ここから階段を登ると伝天守台と称され本曲輪があり、その南西部にかなり規模の大きな障子堀を見ることができました。本来この障子堀は草に覆われて明瞭に見ること出来ないのですが、昨年の台風の影響で倒木被害や土塁の一部崩壊などの被害を受けていたようです。その復旧作業の一貫で倒木の撤去や堀の中の除草が行われたようで、昨年末の下見調査時よりも更に綺麗に整備されていました。山中城の障子堀にも勝るとも劣らない遺構に見学者からは絶賛の声が聞こえました。

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 ともあれ前日の悪天候とは一転し嘘のような好天に恵まれ、また静岡県最南端の白水城と北条水軍の拠点下田城を十分に堪能できた見学会だったと思います。最後に「下田城はいつ見るの?今でしょう!」それでは次回も伊豆シリーズを企画検討中です。乞うご期待下さい。 (文責:宮川茂美、写真:望月徹)

第267回見学会の報告

令和元年11月17日、元号が令和となって初の見学会、「“北遠の雄”天野氏の城」が実施されました。今川氏から徳川氏、そして武田氏へと主君を渡り、強国の狭間で翻弄されつつも戦い続けた天野氏。その天野氏の城の中から、今回は平尾城、犬居城、萩野城を選び、その縄張りから天野氏が遭遇した時代背景、状況を参加者全員で考察しました。 今回、参加いただいた当会顧問、乗松稔氏に現地での解説を特別にお願いしました。
 

【平尾城】 最初の見学地は平尾城です。天野氏の本拠地とされる犬居城から気田川を挟んだ東1キロメートルに位置する。西に気田川、南に不動川、東に金平沢と三方を自然の要害に囲まれた高台の平尾集落の背後にそびえる山上に平尾城がある。山上を削平し主郭とし、数段の腰曲輪と主郭を中心に東・西・北の三方の尾根にそれぞれ一本ずつ堀切を設けただけのシンプルな城ですが、当日の素晴らしい天候も相まって日当たりのよい南側の集落を見下ろす立地、平尾集落そのものの要害性など「かつては天野氏の本拠地だったのでは?」という説にも頷けます。当時の国人領主の生活空間を想像するには良いモデル空間でした。

【犬居城】 2つ目の見学地は犬居城です。天野氏の居城と伝わるも築城時期など城史は不明とされ、『三河物語』の天正2年の「犬居城攻め」で初めて記録に登場する。元亀三年の武田信玄による遠州侵攻が開始されると天野氏は信玄に内応し、犬居郷は武田領となる。犬居城の遺構を見ても、馬出や横堀など武田氏の築城技術が注がれた城である事は確実で、『三河物語』の時期とも一致します。 「まるで丸子城だね!」参加者の多くがその類似性に目を輝かせていました。 遺構の規模などは比べようもありませんが、パーツの配置など間違いなく後の丸子城にフィードバックされた技術が随所に見られます。昼食後には少人数のグループに分かれ各々横堀や馬出に集い、縄張り談義に話を咲かせておりました。

 【萩野城】 今回の見学会最後の見学地は犬居城から北東7㎞に位置する萩野城です。 『遠江国風土記伝』に「古老曰ふ、天野美濃の住居にして天正二年敗る」と記すのみで城史は不明。牧野集落から北西の筏戸集落を結ぶ古道が同城のある尾根を通っており、関所的な役割を担っていた。長篠合戦後の天正四年に徳川氏による犬居城攻めが再開され、萩野城の東5㎞地点にある樽山城が落城している事から、同時期に徳川氏により攻め落とされた可能性が考えられます。 城の主要部は犬居城と同じく山上を削平した階段状の曲輪で構成され、古風な縄張り感が否めない。しかし、城の前面にあたる北側の幅8mにも及ぶ土橋付きの大堀切、そして城の西側斜面に続く横堀など、犬居城に通じる遺構も見られる事から、天野氏独力による改修か、武田氏の手によるものか、はたまた徳川氏が攻略後に再利用した時の改修か、参加者の間で様々な意見交換がおこなわれました。
10月に下見に来た時は悪天候の中、散々でしたが、本番は素晴らしい天気に恵まれ、有意義な見学会を参加者全員で楽しむ事ができました。
(文責:望月 徹 /写真:稲垣雅一、望月 徹)

歴史シンポ in Biviふじえだの報告

今川義元公 生誕500年企画 

「今川氏の城郭と合戦」が大盛会!

令和の新時代を迎えた今年は、伊勢宗瑞(北条早雲)没後500年、今川義元生誕500年という、静岡県に所縁のある戦国大名に関する記念すべき年となっています。当会も7月の定期総会を経て、望月保宏新会長を中心とした新時代がスタート。最初の事業として9月15日、今川義元公生誕五百年企画として歴史シンポジウム「今川氏の城郭と合戦」を藤枝市の静岡産業大学藤枝駅前キャンパスBiViキャンで開催しました。  

小和田哲男名誉顧問の基調講演をはじめ、会員4人が従来の定説に挑む研究発表を披露。前藤枝市長で元静岡放送キャスターの松野輝洋さんをコーディネーターに迎え、「縄張りから捉える今川氏の戦い」をテーマにした討論会を繰り広げました。定員を上回る約130人の来場者の中には著名な研究者も多数みられ、本会の研究に対する関心の高さが窺えました。小和田名誉顧問は「~駿府今川館の実像は~駿府城の発掘成果から」をテーマに講演。寿桂尼の遺言や伝承で、幻の今川館が駿府城の下に眠っていると推定される中で昭和57年、城内の発掘調査で館の遺構が発見された感動を振り返り、出土品の永楽通宝や陶磁器、金細工について解説しました。太閤検地の時代に駿河、遠江、三河の3国で70万石に満たない石高の今川氏が、桶狭間合戦で2万5000人ともいわれる兵力を動員できた背景には、商人を優遇した政策、東海道や太平洋の海運、安倍川や大井川の上流で行っていた金の産出で培った経済力があったことを説明しました。現在、発掘調査が行われている駿府城天守閣については、家康大御所時代の天守台の外れから、中村一氏時代の天守台の一部と約330点の金箔瓦が発見された成果を紹介しました。「一氏は家康が築いたばかりの五カ国時代の駿府城にそのまま入った」という従来の定説に対し、「家康の城を壊して自分の城を築いた」という説を提唱。「大御所時代の城の下に中村時代の城、その下に五カ国時代の城、その下に今川館の痕跡が見つかるのでは」と可能性を示しました。  

 水野茂名誉会長は「永享の乱と謎の狩野氏城郭」をテーマに発表。沼舘愛三氏が戦前に立てた「慈悲尾背後の山城が安倍城」とする定説を検証しました。平成8年に静岡古城研究会で発見した大篠山城(静岡市葵区蕨野・柿島)について、南麓の玉川地区に狩野姓が多く、武田氏に仕えた狩野弥次郎の存在から、「永享の内乱期に狩野氏が拠った奥城で、前身は南北朝期の安倍城だった」と考察。山自体の峻険な要害性に依拠している点が南朝系の城郭に酷似している点も指摘しました。一方、従来の安倍城については、狩野氏の領地外に位置していると強調。建穂寺城および徳願寺城と3城を並立させた運用が考えられ、東海道を幹線にして西側から入る糧道構造と広大な駐屯地が一致しており、将軍足利義教の命で導入された斯波氏が入ったとする考えを示しました。大篠山城の現地調査で体調を崩した後に心臓手術を受けたエピソードも紹介し、「まさに命懸けの調査となった。広域な安倍山には狩野氏の巨大山城がこの他にも眠っているはず。後に続く研究者に調査を託したい」と期待を寄せました。  

望月会長は「義忠・氏親の遠江侵攻と城郭」をテーマに、遠江の奪還を目指す今川義忠・氏親の親子2代の4次にわたる40年間の戦いを、勝間田城、横地城、高藤城、松葉城、三岳城といった関連城郭の遺構と関連させて概観しました。いずれの城も、16世紀後半に徳川氏や武田氏による改修もしくは後世の開発行為を受けており、当時の城郭遺構として明確に峻別できるものはないと説明。これらの城は今川氏が攻めた城であり、今川氏側の城郭の実態については不明な点が多い現状を確認しました。史料によれば、氏親は寺院などを陣所にしたことがあり、今後の史料の精査、寺院跡や土豪屋敷の発掘調査の蓄積などにより実態の解明を期待。「三河や北遠、駿河東部などの事例と比較検討しながら同時期の今川氏の城館について研究を進めていきたい」と意気込みを話しました。  

平井登副会長は、「『花蔵の乱』城郭から見る真相」をテーマに、玄広恵探がどのような経路で追い込まれて自害したのかを検証。小和田名誉顧問らが書籍などで示した「義元派は方上城を落とした後に二手に分かれ、葉梨城と遍照光寺城を攻めた」という定説に一石を投じて乱の実像に迫りました。平成19年に葉梨城周辺を悉皆調査して発見した桂島陣場、遠見番所、村良支塁、入野支塁および義元派の岡部氏と朝比奈氏の拠点城郭、一次資料に登場する恵探派の方上城、葉梨城を基に義元派の侵攻ルートを確認。桂島陣場は遠見番所と二つの支塁と連携性があり、岡部氏の朝日山城や朝比奈氏の朝比奈城を後詰めと捉えた場合、義元派の布陣は朝比奈城の出城である上の山城も取り込んだ南北7㌔にわたる範囲になるという。鶴翼の陣形に配置した城砦群から恵探派の城を同時に攻撃。恵探は唯一の尾根伝いに敗走せざるを得なかったと考察。「恵探の抹殺でしか乱が収まらないと睨んだ義元派の周到な戦術と戦法を桂島陣場の遺構が物語っている」とまとめました。  

川村晃弘副会長は「河東一乱と城郭」をテーマに、今川氏と後北条氏が富士郡や駿東郡で壮絶な戦いを繰り広げたという定説を検証しました。戦いの意義については「後に武田氏を交えて再び同盟を結んでおり、今川氏は三河へ、後北条氏は関東への侵攻が遅れ、両氏にとって必要のない争いだった」と分析しました。この戦いで今川義元が最初に入ったとされる善得寺城については、確かな史料に記載がなく、地形が城跡とは考えられない―などの問題点を挙げ、善得寺そのものに布陣したと考え、「城は存在せず、近くの城山を砦として防御した」と推定しました。両氏は侵攻した先で国衆や敵対勢力に対する多くの城砦を構え、調略を行ったが、富士郡や駿東郡ではそのような動きが確認できないことも合わせて指摘しました。その上で「大名間の都合が前面に出ており、決戦を指向しない外交や交渉が中心で激しい戦いはなかった。互いに正面に敵を抱え、背中で殴り合いをしていた感じになる」と考察しました。  

討論会ではパネリスト5人の講演や発表を振り返るとともに、今川系城郭の特徴について話し合いました。遺構が風化や改修によって不明瞭であり、山城はシンプルな連郭式、平地の居館は方形が基本になっている―といった意見が挙げられ、小和田名誉顧問は「今川系城郭には北条系の障子堀、武田系の丸馬出といった指標はなく、特徴がないのが特徴。今川氏の城と合戦に理解を深める有意義な一日になりました」と締めくくりました。 (文責:金剌信行)

第265回見学会の報告

今回の見学会は、本会が「今川義元公生誕500年祭」プレ事業の一環として行ってきた、「今川氏が三河攻めの際築いた城」シリーズの第3弾、『今川氏の境目の城』をテーマに湖西市内の宇津山城と境目城、浜松市の三ヶ日町との境にある尾奈砦。遠江と三河の国境を越した尾根上に築かれた船形山城(豊橋市)を見学しました。

最初は尾奈砦に行きました。リステル浜名湖ホテルの前でバスを降り、急なみかん畑の道を登って行き、後ろを振り返ると浜名湖の大パノラマが広がっていて、思わず歓声が上がりました。対岸には堀江城(浜松市西区舘山寺町)、佐久城(浜松市北区三ヶ日町)、千頭峯城(尉ケ峰)などが確認できました。更に道無き斜面を、足を滑らせながら登って行くと山の頂にはボロボロになった当城の案内看板が転がっています。その先に井戸址と言われる円形の窪地と斜面を掘り下げた虎口、二重の堀切と幅広の土橋が確認され、当城は単郭式の小さな城であるが、西側尾根続きに対する虎口導入路は技巧的で見事です。堀の外側は広い平坦地で、三河に攻め込む際の兵站基地であったと推定されています。

2ヶ所目は船形山城です。当城は明応(1492~)の頃多米又三郎が在城し、戸田宗光らの攻撃で落城したと云われていましたが、最近では永正14年(1517)であろうと言われています。

真言宗の普門寺門前でバスを降り、急な登山道を、息を切らし登りました。尾根上は遊歩道が整備され、多くのハイカーに出会いました。峠から西に向かって200m程行くと、当城の東側に備えた大きな堀切を越し、ここからが城内で曲輪の周囲には土塁が取り巻き、北側斜面に坂虎口が確認できました。また、北面・南面の山腹には腰曲輪が付き、西側先端に幅の狭い堀切を入れています。現在は土塁上が遊歩道となり、道以外の大部分は雑木が生茂る状態で、参加者は草木を押し分け見学していました。城址では昼食をとるスペースもなく、西側の座談山に登り浜名湖や湖西市の工場群、豊橋東部の市街地を眺めながら弁当を食べました。帰りは寺の旧伽藍址を見学、其の頃から雨が降り出し追われるように下山しました。

3か所目は境目城に向かい、城址に着く頃には天候も回復し青空も出て来て幸いでした。現地の案内は当城の縄張調査を行った望月徹さんが参加していらっしゃったのでお願いしました。 

当城は明治19年、東海道本線建設の用土として切り崩され、ほぼ消滅し、日什聖人が開山した旧跡地と伝わる付近が当時の面影を残すという事で当地を見学しました。そこには窪地にお堂が祀られ、西側の最高地点には北西側に土塁が残っていますが、ここは五輪塔や明治頃までの墓石が散在し、土取りがされた頃までの墓地の跡と思われます。

最後は宇津山城に行きました。当城は今川氏の三河侵攻の拠点城であり、今回見学した城の内では最も規模の大きな城です。当城は東域の「城山」と、西域の「高山」に主要部があり、最初は東域の「城山」を見学しました。この城山は早くから畑に耕作され、最近は荒れ放題の状態で入る事も困難な状況でありましたが、多くの参加者は竹や草を掻き分け土塁の上に登っていました。西域の「高山」は中央に土塁が残っていますが堀は埋め立てられ、土塁の南側は寺の墓地になってしまいました。この後、土塁から北側にある、内側に石積みされた土塁状の遺構を見学し、みんなで何の遺構か検証、猪垣とか、寺の結界、畑の地境等の意見が出ました。

当初の計画では見学は終わりでしたが、少し早く終了したので、サプライズとして帰り道近くにある佐久城を見学。参加者は満足の見学会であったと思われます。
                    (文責:乘松 稔 写真:澤田孝治)


                                  

第264回見学会報告

北条早雲(伊勢宗瑞)の東伊豆侵攻 -河津城と鎌田城-

実施日:平成31年1月20日(日)
天 候:曇り
参加者:26名
担当者:望月副会長、宮川理事

 年明け第一弾の見学会は昨年に引き続き、北条早雲こと伊勢宗瑞にスポットを当てた関連城郭見学会を実施しました。往路休憩地「ゲートウェイ函南」付近で小雨が降出し、一時は濡れる覚悟を決めたものの次第に雨も止み、その後のスケジュールに影響を与えるような天候とはなりませんでした。

 河津桜観光交流館駐車場に到着後、河津城登城口に移動しここで鉄道移動された方々3名を掌握し、城跡の残る山上を目指しました。登城路は過去に整備された痕跡のあるものの、経年変化や猪などの野生動物が地面を掘起こした跡も散見され、それに加えて落ち葉等が多く、傾斜のきつい急登路で汗の出るほどでした。
河津城は在地土豪の蔭山氏が築城し、落城の際には城内備蓄の米を撒いて消火を行ったという伝承がある他は当時の文献史料がなく、江戸時代後期に編纂された「豆州誌稿(秋山富南)」及び「掛川誌稿(山本忠英)」があり、その後地元の郷土史や昭和56年に刊行された「静岡県中世城館跡」に掲載されることとなりました。

平成3年に河津町で公園整備の一環として同町教育委員会により発掘調査が行われました。調査の結果、築城の時期は判然としませんが発掘調査の出土遺物の陶器片などから15世紀後半から16世紀初頭に城郭としては機能していたものと考えられています。この発掘調査前後の時期に当会の水野会長をはじめとする研究者が現地踏査を実施されました。

山上の城址主要部において、望月副会長による見学会資料に基づく概要説明が行われ遺構の見所を再確認した後、北方に延びる稜線上を移動し良好に残る曲輪や切岸・堀切を見学しました。曲輪には明確な土塁が有りませんが、切岸からは当時の急峻さを感じとることができ、戦国時代初期の連郭式の山城の形態を残すシンプルな縄張りを楽しんで頂けたと思います。見学終了後、山上にて昼食及び記念撮影をしたのち洋上の伊豆大島や利島の島影を見ながら下山し次の目的地である伊東市の鎌田城に移動しました。鎌田城入口まで概ね1時間程のバス移動になりましたが途中、相模灘に虹がかかり天候の回復が期待されました。

鎌田城も河津城同様に築城から落城までの文献史料が残されていません。平成15年・16年に伊東市教育委員会の市史編纂事業の一環として発掘調査が行われました。この発掘調査に基づく考古学的な知見と、縄張りを主とする城郭史的観点からの見解の相違が議論されています。埼玉県にある杉山城をはじめとする各地の城郭でも同様な問題点の提議があり、部分的調査の出土遺物で年代を決めることに対し「慎重になるべきでは?」とか高度な縄張り構成から天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めに際して「北条氏の支城として機能していたのでは?」など多くの意見が主張され、近年鎌田城への関心が高まっています。

 虹のご利益なのか鎌田城入口到着時には風もなく薄日のさす山登りには適した天気となりました。小休止した後移動を開始し沢ぞいの足元の悪いガレ場を経て遊歩道を20分程度歩くと城域に到達しました。おそらくこの道が大手道だったのでしょうか。いきなり見学者一同を出迎えたのは、方形状の曲輪を連ねた「重ね馬出」と、この馬出の南側から西側に土塁・堀切・竪堀を連結させた遺構群が目に飛び込んできました。望月副会長からはこの遺構群は鎌田城で一番の見どころとの説明がありました。

更に山上部に進むと三角形状の広い削平地が広がり、朽ち果てた神社のお社が鎮座していました。この削平地は鎌田城の主曲輪とされ、地表面観察により土塁状の高まりが確認でき、おそらくこの曲輪は周囲を土塁で囲まれていたことが推測できました。また見学会資料の縄張り図からこの主曲輪を中心として放射状に曲輪が配置され、それらを防御するため竪堀などの障害構成が施されていることが現地において確認することができました。

午前中に見学した河津城は、自然地形を巧みに利用して稜線上に切岸と堀切を設けてその間に曲輪を配置する連郭式の縄張りとしているのに対し、鎌田城の縄張りは一つの山を大規模な土木工事により技巧的な曲輪の配置や障害の設置などを主眼に築城されていることを改めて感じることができました。

帰路のバスの車中において、今日見学した2つの城郭の年代観について望月副会長から説明がありその中で、2つの城郭の発掘調査で出土した陶磁器の編年は15世紀末から16世紀初頭のものであり、2つの城郭の機能した時代は同じではないだろうか。更にこの15世紀末から16世紀初頭に伊豆半島において歴史的にどのような事件があったのか、それは明応2年(1493年)、北条早雲の伊豆の堀越御所における足利茶々丸追討から始まり、明応7年(1498年)伊豆下田の深根城攻略があり、河津城及び鎌田城もこの時期の早雲による伊豆侵攻によるものと結論づけられているとのことでした。

 今回、北条早雲(伊勢宗瑞)シリーズの第2弾という位置付けで、河津城及び鎌田城の見学会を実施しましたが、来年度に同シリーズの第3弾を企画検討中でありますので、ご期待頂ければと思います。

                          (文責:宮川茂美)