第260回見学会報告

岩殿城で集合写真

実施日:平成30年3月18日(日) 天候:晴れ 参加者:26名
担当者:乗松理事、澤田理事、小川理事

岩殿城とふれあいの館

3月の見学会は、武田氏滅亡を決定づけた裏切りで有名になってしまった小山田氏の関連する城郭3ヶ所を訪ねました。静岡からバスで出発。東名高速道路、御殿場ICから国道138号線、東富士五湖道路、中央高速道路を経て大月ICで降り、大月市民会館でバスを降りて現地集合の方々と合流し、さっそく岩殿城へ向かいました。麓から見る岩殿山は切り立った岩盤の壁が来る者を拒むかのようで、整備されているとはいえ、登山道はかなり厳しく体力を消耗しました。揚城戸とよばれる岩場を利用した虎口を抜けると山頂に至ります。山頂部には物見台、馬場、倉屋敷、狼煙台(本丸)とされる場所があるものの遺構はほとんど見られません。

岩殿城揚城戸跡

この城で見どころといえるのは本丸の東にある2条の堀切ですが、事故防止のため進入禁止となっていたため、手前から眺めるのにとどめました。下見の際は問題なく見ることかできただけに大変残念でした。馬場の下方にある2つの池を見学の後、昼食をすませ、記念撮影をして下山しました。山頂からの眺望はすばらしく、南西方向に雪を頂いた富士山もくっきりと見え、参加者は盛んに写真を撮っていました。次に、岩殿城の北方にある駒宮砦に向かいました。この砦に行くには北からと南からの2つのルートがありますが、バスの乗り入れの制約もあり、南からのルートをとりました。途中からは道も定かでない斜面を直登することになり、参加者は長い列になってゆっくりと登っていくことになりました。この砦は烽火台ともいわれていますが、意外と広い城域、堀切など良く残る遺構を観察すると、街道を監視する役目をもった砦であろうと思われます。参加者は興味深げに城域を隅々まで見て回っていました。

勝山城本丸

見学会の最後は、数年前にも当会で訪れた勝山城を訪ねました。本丸までの途中には南に張り出した川棚見張台をはじめ、三の丸、二の丸や帯郭などがあり、本丸への道沿いには石垣も見られます。本丸からの眺望は岩殿城同様すばらしく、眼下には居館があったとされる谷村の街並みが見えました。本丸からは北尾根に向かい、途中堀切を経て大沢の見張台まで行き、この後、本丸西直下を廻る内堀を辿り下山しました。当日は、当会顧問の小和田先生も参加され、レクチャーもしていただき、大変有意義な見学会となりました。(文責:澤田)

第260回見学会ご案内

小山田氏の岩殿城と勝山城

3月の見学会は、武田氏の重臣であった郡内地方の小山田氏ゆかりの山城を探訪いたします。関東三名城(他2城:岩櫃城・久能城)の一つである岩殿城(大月市)と勝山城(都留市)をメインとした中身の濃い見学コースとなっています。
本会では、ここ数年、新入会員や非会員の参加も増えつつあることから、会の長い歴史の中で何回か行っている著名な山城にも三度足を運び、縄張学を究めるための良い見本として再探訪を計画したものであります。そそり立つ岩殿城の岩肌が陽光に輝き、可憐な野草が勝山城の曲輪に萌える風景を求めるのも山城探訪の醍醐味でしょう。ご家族やご友人と一緒に、ご参加いただきたいと存じます。

  • 実施日:平成30年3月18日(日曜日) *荒天の場合は中止
  • 見学先:大月市:岩殿城・駒宮砦 都留市:勝山城  〔脚力レベル: 4/5〕
  • 参加費:会員6,000円 非会員6,500円  当日朝バス内で集金
  • 乗り物:市沢バス 〔集合場所:静岡駅南口・ロータリ交差点付近〕
  • 身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲み
  • 担 当:乘松理事・澤田理事
  • 締切り:定員になりましたので締め切りました!
  • 日 程:
    8:00 静岡駅南口出発 → 東名・静岡IC → 8:40 愛鷹PA(トイレ休憩)→9:00東名・御殿場IC → 国道138 → 東富士五湖道路 → 中央高速道路 → 9:50 大月IC → 10:15 ~ 13:00 岩殿城(昼食)13:30 ~ 14:45 駒宮砦 → 15:20 谷村町駅 → 15:40 ~ 16:40 勝山城 → 17:00 谷村町駅 → 都留IC → 中央高速道路 → 東富士五湖道路 → 国道138 → 17:50 東名・御殿場IC → 18:10 愛鷹PA(トイレ休憩)→ 東名・静岡IC → 18:50 静岡駅南口着 解散

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第259回見学会報告

北条早雲(伊勢宗瑞)と伊豆狩野氏の戦い
― 柏久保城・大見城・狩野城 ―

実施日:平成29年1月21日(日)
天 候:曇り
参加者:26名
担当者:望月副会長、宮川理事

年明け第一弾の見学会は、北条早雲こと伊勢宗瑞にスポットを当てた関連城郭見学会を実施しました。当日は晴天とまでは行きませんでしたが、寒風も多少和らぎ、絶好の見学日和となりました。また、前日に伊豆の国市にある「アクシスかつらぎ」で行われたシンポジウム「韮山城をめぐる攻防」に参加され三島市内に宿泊、連日の参加となった強者の方々もおられました。
伊豆箱根鉄道修善寺駅にて、2名の参加者を掌握後に柏久保城登城口までマイクロバスで移動、城址への歩道は落ち葉等が多く歩きにくい場所もありましたが、容易に目的地に到達することができました。

柏久保城堀切

柏久保城の創築時期は判然としませんが、鎌倉幕府草創以来の御家人である狩野氏の出城として築かれたとされ、明応2年(1493)以降において反早雲派の狩野氏と対立の際、早雲が伊豆国平定のため、大見三人衆等に普請させたと考えられています。 望月副会長の現地説明で、「柏久保城に残る堀切や土塁は、西側と南側にしか見られないが、これは明らかに狩野氏からの攻撃を想定した縄張りで、北東側の深い谷の名称は新九郎谷と呼ばれている。」という説明に参加者は興味深めに聞き入っていました。柏久保城及び次の見学地の大見城からは、天気が良ければ富士山を眺望できる絶好の場所でもありますが、当日は残念ながら雲が多くその雄姿を見ることは出来ませんでした。
柏久保城の見学を終了し中伊豆の大見城に移動、「伊豆大見の郷 季多楽」という農産物直売所の駐車場にて下車、すぐ近くにある大見氏の館跡と言われる實成寺を見学後、隣接する諏訪神社の鳥居から大見城に向かいました。ここは以前、「中山間地域総合整備事業」の一環で農村公園として整備されていましたが、最近では人の手が入れられた形跡はなく、散策路にある橋は朽ち落ちる寸前であり、竪堀も崩落した場所が散見されるなど現地の状態はあまり良くありませんでした。

大見城現況

大見城は狩野川の支流である大見川と冷川の合流点の南側にある小山の頂を中心に築かれた城郭で、修善寺から冷川峠を通り、伊東に向かう街道を抑える要衝に位置し当初は東側に伊東氏、南側に狩野氏という伊勢宗瑞に敵対する国衆勢力の間にあって、宗瑞方の重要な戦略拠点であったことが窺えます。
明応6年(1497)、伊勢宗瑞方として大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)が大見城から出撃し、柏久保城を攻撃中の狩野方を背後から攻め退却を余儀なくさせるとともに、同年には大見城に籠城したことが文献に残されています。重厚な縄張りとは言えませんが、前述の大見三人衆が立て籠もるにはコンパクトで理に適った城郭だったことを現地見学を通しての印象でした。

狩野城主郭

大見城で昼食後、本日のメインである狩野城に向け移動、狩野城は修善寺から天城湯ヶ島に至る狩野川流域を本拠としていた狩野氏が築いた城郭とされ、狩野荘のほぼ中央の下田街道を見下ろす丘陵上にあり、築城時期については判然としませんが、15世紀後半と考えられています。現在の狩野城は、地元ボランテアの手により遊歩道の整備が行われ、立ち木もほどよく伐採され、遺構の観察もしやすくなっており、また随所に狩野城をアピールする幟旗が立てられていました。また城の遺構は埋蔵文化財包含地として登録され、さらに伊豆市の指定史跡となっています。

狩野城二重堀切

遺構は、柿木川と狩野川に挟まれた、標高180m、比高80m程の城山の山頂部付近の尾根沿いに展開しており、特に西南部には技巧的な土塁や空堀で構成された曲輪が目立ち、また尾根の南東部末端に位置する二重堀切は素晴らしいものでした。その他に主曲輪と考えられる平坦地には廃屋と化した御堂があり、その南側には、かなり高く櫓台と思しき遺構が残っており狩野城の最高所となっていました。見学の最中に会員の方々と狩野城の年代観について意見交換し、特に前述の二重堀切の年代観については色々な意見を拝聴でき有意義な時間となりました。また狩野城見学終了直前に、参加者数名が縄張図に記載のない遺構らしきものを発見され、今後の遺構精査の必要性を感じた次第です。

韮山城堀切

本来ならば見学会スケジュールは狩野城で終了予定でしたが、時間的余裕が出来たので、遺構整備が続く韮山城の三重堀切と土手和田砦の見学を実施しました。両遺構とも、最近までは藪が生い茂り人の立ち入りを拒むような状態でしたが、「韮山城を復元する会」の方々のご尽力により、藪が切り開かれて普段見ることのできない土手和田砦の遺構や圧巻ともいえる韮山城三重堀切に参加者一同興味深めに見学していました。

今回、北条早雲(伊勢宗瑞)シリーズの第一弾という位置付けで見学会を実施しました。来年度に同シリーズの第二弾見学会の実施を企画検討中でありますので、ご期待頂ければと思います。(文責:宮川茂美)

第259回見学会のご案内

北条早雲(伊勢宗瑞)と伊豆狩野氏の戦い
― 柏久保城・大見城・狩野城 ―

 新年1月の見学会は、新シリーズとなりますが、北条早雲こと伊勢宗瑞にスポットをあてた見学会を計画いたしました。今川氏中興の祖・氏親を支えて領国拡大策に大きく貢献した早雲の戦歴を何回かに分けて勉強していきたいと思います。
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲は約5年間かけて伊豆を制圧していきますが、その中で抵抗勢力の狩野氏との抗争の舞台となったと考えられる中伊豆地域の柏久保城、大見城(早雲側)、狩野城(狩野氏側)の縄張りを観察し、それぞれの縄張構造の比較や、3城がその後(天正期など)使用された可能性の有無等について考察いたします。いずれの山城も遺構の保存状態がよく、明応年間の構造あるいは戦国末期の構造を学ぶ上で、指標となる城郭ですので、奮ってご参加いただきたいと存じます。

  • 実施日:平成30年1月21日(日曜日) *小雨決行
  • 見学先:柏久保城・大見城・狩野城〔脚力レベル: 3/5〕
  • 参加費:会員5,000円  非会員5,500円  当日朝バス内で集金
  • 乗り物:市沢バス 〔集合場所:静岡駅南口・ロータリ交差点付近〕
  • 身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当飲物類
  • 担 当:望月副会長・宮川理事
  • 申込み:定員になりましたので締め切りました
  • 日 程:8:00 静岡駅南口出発 → 東名・静岡IC → 8:30 富士川SA(トイレ休憩)→ 8:50 東名・沼津IC → 伊豆縦貫道 → 9:15 道の駅・伊豆ゲートウェイ函南(休憩)→ 9:45 伊豆縦貫道・修善寺南IC → 10:00 伊豆箱根鉄道・修善寺駅 → 10:10 ~ 11:30 柏久保城跡12:00 ~ 13:30 大見城跡(昼食)→14:00~ 15:30 狩野城跡 → 15:45 伊豆縦貫道・大平IC → 16:15 伊豆縦貫道・伊豆長岡IC → 16:30 伊豆箱根鉄道・韮山駅 → 16:50 道の駅・伊豆ゲートウェイ函南(休憩)→ 伊豆縦貫道 → 17:15 東名・沼津IC → 東名・静岡IC →18:30 静岡駅南口帰着 解散

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御前崎市 新野郷の山城はミステリー

武田・徳川両氏の中遠・東遠城郭分布図(天正3年以降)

御前崎市には戦国時代に築かれた約13の城館跡が確認され、この新野郷には6つの山城が存在する。いずれも史料・文献はまったく見当たらず、異常なまでに密集するところは全国的に見ても類稀な地域である。ただ舟ヶ谷の城山(新野城)周辺には、「トンノヤ」・「トンノビラ」・「オオエ」(大手か)・「地蔵段」などの地名から根小屋(城下集落)の存在が捉えられ、井伊家大恩人の新野左馬助公で知られる今川系新野氏の本地であったことは評価される。

山城を築くことは、この地域が戦場になることを意味する。ここでの抗争、あるいは戦いをたどると、文明8年(1476)、今川義忠の遠江侵攻に伴う横地城・勝間田城攻めに勝利し、凱旋途中の塩買坂で残党により敗死したことは知られているが、このときは当該に山城を築くことはあり得ない。どうみても、今川氏滅亡後の武田信玄・勝頼による徳川家康領である遠江侵攻に際して、「高天神を制する者は遠江を制する」といわれた高天神城攻防が最も高い時期にあたる。武田軍の糧道(兵員・物資)を確保・供給する拠点としていたことが、長期にわたった同城の戦いと、城郭遺構の関連性から読み取れる。

武田氏の牙城であった高天神城

武田勝頼画像(法泉寺蔵)

元亀3年(1572)10月、信玄のときの遠江侵攻は相良(牧之原市)から塩の道(信州街道)に侵入し、高天神城を攻めることなく通過しことは『当代記』にあり、新野地域に山城を築くことはなかった。さらに、信玄は同12月に三方ヶ原で徳川軍を撃ち破ったが、翌年4月に伊那谷の駒場で病没した。その情報は早く家康に知れることになり、軍事行動は長篠城(新城市)などを奪還するほど迅速であった。信玄亡き跡を継いだ勝頼も一転して攻勢に転じ、天正元年(1573)12月に諏訪原城を築き徳川方の掛川城・久野城と高天神城を攻めるための拠点城を築いた。一方、翌年2月に織田信長領であった東濃の明知城(中津川市)を陥し、奥三河から東三河へ軍事行動は激甚的であった。そして、父・信玄もなしえなかった高天神城を4月に開城させたまでは良かったが、翌天正3年5月の設楽原で大敗北した。優位な軍事情勢は一変し、武田領の城郭を死守することを命じた勝頼から山県源四郎(父・昌景は設楽原で戦死)宛ての「高天神之用心寛容要候、令堅固候・・」、さらに「直参衆以下加勢候」の史料からも歴然である。このときに、新野地域に高天神城を支援し、糧道(兵粮を送る)となる軍事基地を普請したと思われる。

勝頼は、天正5年に小田原北条氏と甲相同類を結び、軍事力の立て直しを図り、同11月には徳川軍の横須賀城を包囲し攻撃態勢にあったが、突然、兵を高天神城に退くも、一か月ほど当該地域の軍事行動を続ける不可思議な行動であった。兵を退いたことについて、『改正三河後風土記』に、この度の出馬は信長を誘き出すもので、それが叶わなかったことが要因としている。

新野地域の城郭分布図

武田軍の駐屯地とした広大な八幡平の城

天ヶ谷の城平から7㎞地点の高天神城を望む

新野地域の5か城は、主要街道の塩の道が牧之原台地の「新野原」に上がり、同所から別れた支尾根上を南下すると、まず簡素であるも広い篠ヶ谷砦に入る。ここから500m進むと広大な八幡平の城が構えられ、階層性のない二郭構造は高天神城への後詰となる策源地(後方支援基地)であろう。さらに、500m進むと舟ヶ谷の城山と一直線上に繋がり、兵員移動を容易にして出撃するための陣備えの要の地になっていたと考えられる。

この3か城の前面に立ちはだかる天ヶ谷の城平からは高天神城と徳川軍が侵入する浜道が監視できる環境にある。そして、階層性が高い曲輪配置から、釜原城と共に高天神城方面に侵入した徳川軍を迎え撃つ巨大軍事拠点であったことが首肯できよう。
しかし、徳川軍を迎え撃つだけならば、これだけの巨大城郭群は無用である。勝頼の遠江侵攻と高天神城死守は、亡き信玄の遺志であった信長包囲網を引き継ぐもので、標的はあくまでも信長を誘き出し 迎撃するための装置であったとことが類推されてくる。(文責:水野 茂)